日本や東洋には、哲学は育たないのか

日本や東洋には、哲学は育たないのか

芳村思風一語一会 vol.5305 ☆☆☆☆☆☆ 日本や東洋には、哲学は育たないのか ☆☆☆☆☆ 結論から言うと、日本にも、東洋にも古来より独自の哲学がたくさんある。  ではなぜ、日本には「 哲学がない」とか「育たない」と言われるのか。  日本には、西洋的哲学や西洋的価値判断を基準とした哲学がないだけ。  西洋の学問は、理性をベースに細分化することで発展してきた。 「人間の本質は、理性である」と考え 「真理はひとつ」として、正しさを追究して発展した。   西洋哲学は、個人の考えをどこから追及されても、 どんな角度から責められても、  相手を説得できる崩されることのない根拠がつくられている。  だから哲学には、個人の考え方、信念しかない。  カントの哲学、ニーチェの哲学、ヘーゲルの哲学のように 個人名を冠した哲学しかない。 カントの哲学とは、カントが個人で論証して体系化して作り上げた哲学。  時代に合わせて、新しい哲学が、個人によって作られてきた。  日本の大学の哲学科は、 先ず誰の哲学を研究するかを決めなければいけない。  ニーチェを選択したら、ニーチェの書いた文献を研究し、 論文を書いて、評価を受ける。 だからニーチェ哲学研究の大御所はいても、 自分で自分の哲学を作ろうという人は少ない。  なぜなら、評価をする基準がなく、 評価をできる人がいないから。  日本の大学では、自分の哲学は評価されない。  東洋の哲学は、西洋の哲学と違い、 根拠が示されていないものが多い。  わかりやすいのは「論語」。 結論しか書かれていない。 自分自身の体験、経験、学び、気づきの結論を語っている。 なぜそうなるのかという根拠は、 論語を学びながら、自分自身で体験して気づかなければ学んだことにならない。  言葉ですら伝えられないものとして実感、体感で伝わってきた。 感じたことをすべて正確に言葉にすることはできない。 言葉は不完全な人間が作ったものだから、言葉も不完全。  根拠ではなく実践と実感で伝えてきたものに東洋や日本の哲学がある。  感性論哲学は、芳村思風の個人の哲学ではない。 感性論哲学は、感性をベースにしたことで、 観念論と唯物論という相対する2つの哲学の対立を乗り越えて統合した。  感性論哲学は、近代・西洋の「人間の本質は理性である」という時代から、 次の新しい時代・東洋の時代の「人間の本質は心である」 という新しい時代を作る哲学である。  感性論哲学が、個人の哲学を越えた理由は、 感性論哲学が宇宙の摂理に則った哲学だからである。  宇宙の摂理とは、科学でいうと宇宙の法則のこと。 人間は、宇宙の摂理によって生み出された。 だから人間は宇宙の一部であり、人間も宇宙そのものと言える。  人間が人間らしく生きるとは、 「宇宙の摂理」にのっとって生きるということ。 人間は寝ていても死なないのは、 命が人間の力で生きているのではなく、 命を作った摂理の力によって生かされているから。  宇宙の摂理とは、プラスとマイナスに評価される相反するエネルギーが、 対立することなく協力して働いて、秩序を保つ働きのこと。  人間が人間らしく生きるとは、 矛盾を生きるということであり、 また不完全を生きるということであり、 矛盾を活かし、不完全を生きるという生き方である。  「宇宙の摂理」にあった生き方とは、 常に対立するものを、対立させないで協力しあって働くという生き方。 国の違い、考え方の違い、宗教の違いで対立する時代は終わったのである  ※「感性論哲学 育成講座」質疑応答より   やさしい笑顔と光がすべての方に届きますように・・・   ※「何があっても だいじょうぶ」 A6版 1,000円+税 思風語録から55の言葉を選び 解説はできるだけ少なくしました 「?」とくる言葉を感じてみてください   ●芳村思風先生の勉強会 ・2月6日(土)四日市思風塾 18:00~20:00ミッドランド経営 参加費:5,000円  ・2月10日(土)東京思風塾 13:00~15:30 ZOOM 参加費:5,000円   ※お問い合わせ 思風庵哲学研究所  


Source: 芳村思風 感性論哲学の世界