日本の遷都、6安土・桃山 ・江戸時代

守護地頭といった武家領主と寺社公家ら荘 園領主たちの連合政権といった性格をもった 室町政権は, その出発点から安定性に欠けて いたが, 応仁元年 (1467年) 将軍家の相続争 いに, 将軍家を支える有力守護大名家の相続 争いもからんで, 二派に分れた将軍家にこれ も二派に分れた守護大名たちが加わって争い を始めた。

東軍は細川勝元を中心に24ヶ国ー6 万, 西軍は山名持費を中心に20ヶ国9万の軍 兵が京都を舞台に来て しない争いをつづけた。 これを応仁の乱と呼んで約100年も続く がこの間に京都の町は戦火に焼かれてしまい, 将軍家の勢力は地におち, またそれを支えて いた大名達も薫に疲れはてていった〟 このよ うにこれまで日本を支配し続けていた上層社 会の力は衰え, 守護代以下の在地勢力が段々 と力を伸ばし, お互いに相手を征服してよ り 強大になるための武翼をく りかえすよ うにな る〝 これが下麺上の時代と呼ばれる戦国時代 である。

淘汰・統合は段々と進みー6世紀半ば ころには, 伊達・上杉・後北条・武田 ・今川 ・織田 ・毛利・長宗我部・大友・ 島津といっ た人達が一頭地を抜く有様になっていたが, そのなかでも織田信長が頭角をあらわしてき た。 彼は天正4年 (1576年) 近江の安土に, それまでにみられない巨大な近世城下町をつ く った く近世城下町はこの2年前に, 羽柴秀 吉が近江の長浜にっく ったのが最初だといわ れている)。 近世城下町とは, それまでの中 世城郭とちがって, 要害を主と した山城では なく, 領国の中央, 政治経済の中心地に設けられ, 天守をいただく城郭部分と, その周囲 をと りま く町屋部分とが一体の存在で, 大量 輸送を考えて舟遣のき く水につけているのが 一般であり, 長浜も安土も琵琶湖にっけてっ く られていた。

織田信長が安土を選んだ理由は, この土地 は東と西とをつな ぐ交通の要衝であるのみな らず, 日本海側と京都をつな ぐ物資輸送路で ある琵琶湖水上輸送路もおさえる位置にあっ たからである (当時までは日本海側の物資は 若狭湾に面した敦賀か小浜で陸上げされ, 陸 路で琵琶湖まで運ばれ, 湖を舟で都へと運ば れていた〟 西廻りの航路が開発され, 大阪の 地位が上るのは江戸時代に入った1650年ころ である)〟

安土はこのよ うに当時としては他に比類の ない交通の要衝であるうえ, 京都の旧勢力か らは離れ, しかも旧勢力を監視するには好個 を占めていた。 これが信長が天下統一 の拠点として安土をえらんだ理由である〟しかし信長の時代は長く続かず, それに 替った豊臣秀吉 (大阪 ・ 桃山を本拠とずる) の時代も短く て, 世は徳川氏の江戸時代に 移っていった。

` 徳川家康が江戸に入ったのは天正18年 (15 90年) 8月 1 日のことである。 従来の領地 (三河・遠江・信濃 ・ 甲斐・伊豆) に代って, 関東を与えられた からである。 この時これら5ヶ国を失うぐら いなら, いっそこの際秀吉に反して兵を挙げ よ うと騒ぎたてる家臣たちのなか, 家康は一 人満足げに笑っていた, という話がある。 江戸に入ったとき, もちろん太田道灌 の遺樓なるものが残っていて, 本丸・二九・ 三丸なるものがあったが, 石垣はなく土をか きあげた土手があり, 海岸に出入りずるとこ ろに数ヵ所木戸があり, 城内の建物も華ぶき の古屋で, 玄関には階と しては舟板が三枚な らべられている程度, しかも城下には茅葦き の家が100件ほどあった程度のものだった。

これに大改撃を加えて天下の城下町, 将軍の 御膝元と して体裁をととのえるのは, 裏長8 年 (1603年) からはじまる江戸市街地の建設 と, 同9年からはじまる江戸城の大改築であ る。 これらは, “天下普請” といって, ほと んど全国の大名たちを動員して行われ, 寛永10年 (1633年) ころ, ほぼ予定の仕事が終 わった。 しかし翌11年の “諸大名妻子在府 制” , 翌12年の “参勤交替制” 実施によ り江 戸は大膨張をはじめ, 再開発計画にと りか かった矢先, 明暦3年 (1657年) の江戸大火 (名層大火) で, 江戸城天守閣以下ほとんど の市城が焼失してしまった。 その後若干の計 画のもとに再建にと りかかるが計画を上回る 大発展をとげ, 幕府はじまって約100年経過 した元禄時代には, 人口ー00万といわれる世界有数の巨大都市になった。

このよ うに関東の江戸を政権の本拠と した 徳川家康と, その前の実権者豊臣秀吉とでは 政権構想が大きく ちがっていた。 豊臣秀吉に ついては, 尾張中村の小百姓の出でなくて, さる皇族の御落胤であるという , 責種落胤伝 説があるが, これは彼自身が流したものだと いわれている〟 これで判るよ うに彼は天下を 握ると, 天正13年 (1585年) 関白となり姓を 藤原と改め, 翌14年には律令官制では最高位 の太政大臣となり, 豊臣という姓を朝廷から 賜り, 同16年には京都に聚落第をつく って後 陽成天皇の行幸をあおぐなど, 彼は新しく生 まれた社会の新しい支配者でありながら, わ が国古来の伝統的権威である皇室に, 限りな く近づく ことで自己の権力を権威づけるとい う手法をとっている〟 これに対し秀吉のあとをうけた徳川家康は かなり越を異にしている。 彼は裏長8年 (16 03年) 征夷大将軍に任命されたことを政権掌 握の拠り処として, 江戸に幕府を開くが, 彼 はあく まで武家の棟梁として政権を握るとい う, 鎌倉政権, 室町政権の伝統に乗ろうとし ている。

家康は三河国松平郷を本拠とする在地小領 主の出であるが, 天下を取ると自己の家柄を 権威づけるために, 上州世良田郷に住む足利 氏の支流の親氏が, 某年某日落飾して諸国流 浪の旅に出, 松平郷で入婿したのが徳川氏の 祖先であるという話を組みあげている。 これ も一種の賽種流離譚であるが, 責董はあく ま で室町将軍家をつく った足利氏であって, 秀 吉のよ うに皇室ではない。 したがって皇室の 下にあって自分を無限にそれに近づけよ うと した秀吉と, 皇室をあく まで自己の政権の下 に置いて (たとえば 「禁中並武家諸法度」), これをコント ロールしょうとする家康の政治 姿勢に違いがでてく るのである】 それは自己 の政権政庁を天皇の居所と しての京都そのも のではないが’ それに出来るだけ近い桃山 ・大阪にごいた秀吉と, 大きく切り離された江 戸におく という政都のえらびかたの違いにも 現われてくるのである。 それ以前の日本が, 上から下へと組みたて た社会とずれば, 江戸時代からは下から上へ と組みあげた社会である。 江戸時代は300諸 侯というが, 実際には約2冊ほどの諸侯 (大 名) がおり, その上に幕府が乗るという組み たてになっていた。 したがって江戸時代に “国” というのは, 今日の日本ではなくて約 270ほどの藩のことであった。 その幕は徳川 幕府に一定の制約をうけていたが, 経済的に は自立した存在で, その暮独自の財政と税制 をもっており, したがって独自の経済政策を 持っていた。

そのよ うな藩の政庁 (都) が城 下町と呼ばれる存在であった。 徳川氏といえ どもその中の一つの藩で, 約700万石という 他に抜きん出た領地を持っているほか, 幕府 という幕連合体を統・ コント ロールをする役 目をもつ存在であった。 したがって江戸は大 名と しての徳川氏と日本全体の統率者として の両機龍を兼ねた城下町であった。 城下町は一定のルールでっく られた人工的 都市であった。

まず城下町は海・河川 ・運河・湖 などの違いはあるが, 水についているのが原 則であった。 これは領内人口の約一割を豪め た巨大消費都市の消費物資と, 領内の物産を移出し, また移入するための運輸の便を考え てのことであった。 つぎに城下町の中心には 城郭部分があり, 領主の居所・政庁および, 場合によっては藩の最上級家臣の居所もここ にぁった。 っぎは武家地で, ここに家臣団が ほぼ階層別, 職種別に居住していた。 その外 側は川や構 ・ 堀などで区切られている事が多 いが, 領内から集められた商職人が集往して いた。 江戸時代では “兵農分離” ということ がよ く云われるが, 農商の分離も同時に行わ れ, 兵と商 (工を含む) が農から分離して城 下町に住むのが一般であった。 またこの町地 (町人地ともいう) には他領から入り, 他領 に抜ける “天下の公道” が通っているのが一 般であった〟 町地の外は寺社地で, ここは城 下町防衛も考慮した配慮で, 一朝事ある時は ここが城下町防衛の外郭陣地となる筈であっ たが, 江戸時代は平和が続いたので, 現実に は市民のレク リエーショ ンの場としての役割 をした。