日本の遷都、1難波遷都

第33代推古天皇から第40代天武天皇までは, “一代一皇居時代” といって, 天皇が予め用意された都にいて政治を見るのではなくて, 一代ごとに皇居をかえるのが一般であった。 しかしこの間も皇居が奈良県高市明日香村あたり, ずなわち飛鳥川流域で, 天香久山から畝傍山にはさまれた狭い地域を, 第34代野明天皇は飛鳥岡本宮, 第35代皇極天皇は飛鳥板蓋宮, 第37代斉明天皇は後飛鳥岡本宮,第40代天武天皇は飛鳥浄御原宮というよ うに移動している。

しかしこの時代にも二度ばかり都が飛鳥の地を離れたことがある。 その第一回目は第36代孝徳天皇が大化元年 (645年) に都を現大阪市にあたる難波長柄豊碕宮に移した時であり, 第二回目は第38代天智天皇が天智6年(船7年) に近江の大津宮に移した時である。まず第一回目についていえば, この年の6月それまでわが国政を実質的に握っていた大豪族蘇我入鹿を, 中大兄王子 (後の天智天皇)
と中臣鎌足とが暗殺し, いわゆる “大化改新” と呼ぶ大改革にのりだした時期でぁる〝すなわちそれまでは氏姓制度に基づく豪族たちが, 土地と人民とを個別的に支配していたのを否定し, 公地公民制による中央集権・ 官僚支配体制の積藁を目指し, また京師〟 国 ・郡 ・ 里などの地方行政組織, 戸籍調ー度の導入と班田収技法, 租・農・翼といった統一的税制の確立がはかられた。 統一国家としてのわが国の出発を目指す大改革であった。難波遷都の理由は, 氏姓制度に基礎をおく豪族達の勢力がまだ強く残っている飛鳥地方を脱出して, この改革遂行のフリー ・ ハン ドを保っためであった〟 しかし都を他の撮所ではなく , あえて難波の地 (現大阪) を選んだことにっいては, いま一つ当時わが国が直面していた対外問題があった。