横井 小楠(よこい しょうなん)

幕末の熊本藩士・政治家・思想家。肥後生。名は時存、字は子操、通称平四郎、別号に沼山。江戸に遊学して藤田東湖らと交わる。藩校時習館の守旧的な学風を批判、元田永孚らと実学党をつくり、私塾小楠堂で子弟を教育する。のち福井藩主松平慶永(春獄)に招かれて藩の政治顧問となり藩政改革を指導、さらに慶永が幕府政事総裁となるとその政治顧問として幕政改革を推進した。明治新政府の参与に起用される。明治2年(1869)歿、61才。

肥後藩の藩校である「時習館」に学びましたが、居寮長に抜擢されたり、江戸留学も命じられた秀才でした。後に、実学党グループをつくって藩学に対抗したり、私塾「小楠堂」を開き、藩政改革派を育てます。

 「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」と言います。当時の熊本(肥後藩)には、実学党に対して、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」などのグループがあり、幕末から明治にかけて、政争を繰り返していました。

 小楠の考え方は保守的な考えの強かった地元熊本では受け入れてもらえず、福井藩の改革とか、幕政改革などに大きな功績を残します。例えば、天保14年(1843)に肥後藩の藩政改革のために書いた「時務策」で、藩の経済行政を批判したという理由で、肥後藩には受け入れられませんでした。明治元年(1868)には上京し、維新政府の参与に任ぜられ、活躍が期待されましたが、明治2年(1869)正月5日、京都で攘夷論者の凶刃に倒れました。日本のために実に不幸な出来事でした。

文久2年(1862)、幕政改革のため、次のような「国是7カ条」というものをまとめています。

 

国是7カ条

  • 大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ(将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る)
  • 諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)
  • 諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国元に帰す)
  • 外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ(優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)
  • 大いに言路を開き、天下公共の政をなせ(多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)
  • 海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり軍の力を強くする)
  • 相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)

勝海舟曰く「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」。日本史の教科書でもろくに取り上げられず、幕末もののドラマで登場することもほとんどない。しかし小楠こそ、坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大な影響を与えた「陰の指南役」であった。