佐藤正忠(経済界の創業者であり、雑誌『経済界』主幹)

佐藤正忠氏は、高度成長期からバブル崩壊後の1990年代、2000年代まで活躍した経営評論家です。㈱経済界を創業し、雑誌「経済界」の編集主幹を務めた人です。

私的経営評論というべき、「経営者の人物論」に優れ、三鬼陽之助(戦前から高度成長期まで活躍した経営評論家)の後継者と言われました。

佐藤正忠氏は、もともと小説家志望であり、『徳川家康』をかいた山岡荘八氏の弟子となって文章を磨く勉強をした経験があるそうです。それだけに、文体にキレがあって、私の好きな著作家の一人です。

佐藤正忠氏の設立した㈱経済界は、今でも活動していますが、以前ほどの知名度と注目はないようです。佐藤正忠氏には、数え切れない程の著作がありますが、現在では、忘れられつつある存在とも言えます。そこには、時代の変化があるのでしょう。

佐藤正忠氏の書いた一流の経営者の思い出話を読むと、高度経済成長に邁進していた日本経済の活力を感じます。

なお、一般財団法人佐藤正忠財団という財団も設立し、今も活動しているようです。

 

<略歴>

株式会社経済界の創業者。雑誌『経済界』元主幹。著書多数。

昭和3年(1928年)、秋田県生まれ。2013年8月17日、85歳にて他界

小学校代用教員を経て明治学院大学に学び、明治学院在学中に、家族への仕送りと学費捻出のため、易者をしながら全国を巡る。 その経験をまとめた初の著書『学生易者』が話題となり、一躍時の人に。

その後、リコー社長の市村清氏の秘書となり、後に「経営の神様」といわれる市村清をプロデュース。各界の一流人の知遇を得る。

昭和39年(1964年)、フェイス出版(「経済界」の前身)を創立。

驚くべき顔の広さと卓抜した人間洞察力に裏付けられた人間味あふれる経済評論には定評がある。

 

〇株式会社経済界(けいざいかい、英称:KEIZAIKAI CO.,LTD.)

 

昭和39年4月に設立。雑誌『財界』などと並ぶ老舗の経営者向け雑誌『経済界』の出版元及び、歴史ある異業種交流会『経済界倶楽部』の親会社である。

雑誌『経済界』は、週刊東洋経済などのビジネス雑誌とは一線を画し、経営者のインタビュー中心の記事構成を取る。

 

リコー社長・市村清の私設秘書をしていた佐藤正忠(さとう せいちゅう、1928年 – 2013年8月17日[1])が1964年に前身のフェイス出版を設立。月2回発行の雑誌『経済界』の他、経営者の心構えなどを説く各種ビジネス書を出版。佐藤はのち、1979年ゴルフ中に脳卒中で倒れるが、その後一線に復帰し、主幹として活躍した。南青山に本社支局があった。2001年10月に佐藤は社長を退任し社主となった。後任の社長には佐藤の長女・有美が就任。

佐藤は、2005年に内閣官房副長官・安倍晋三をグッドウィル・グループ会長・折口雅博(役職はいずれも当時)に引き合わせ、コムスン社内報でのインタビューを実現させた事でも知られる(コムスン通信Vol.10)。

 

事業

雑誌『経済界』、及び書籍『経済界出版』の発行

異業種交流会「経済界倶楽部」の運営

 

《佐藤正忠の哲学》

 

「まず動け、そこから道が拓けていく」

経営とは頭で考えることではなく体で覚えること、学問でも論理でもなく、経験が自信を育て知恵を生む。観念でなく、現実であり、実戦である。

 

「困難な道と安易な道があれば、私は前者を選ぶ」

「ピンチはチャンスなり」

経営者は、常に物事に挑戦し続けなくてはならない。困難な道に果敢に挑戦して打ち勝ててこそ成長はある。そしてまた新たな困難を乗り切る強さが生じる。

 

「常在戦場」「開拓あるところ行き詰まりなし」

経営者は周囲の環境の変化を素早く察知し、経営を変化させなければ企業は転覆してしまう。異業種との交流を常にとり、業界の変化・動向に敏感でなければならない。

 

「君主は変貌す」

経営者は一度決めたことを改める勇気を持つことが必要である

「継続は力なり」「汝が立つところ深く掘れ そこに泉あり」

どんな苦境であろうと、あきらめずやり続けることで、自分自身の強さとなり、

その経験が知らないうちに自信へ導くもの。

 

「百錬の黄金、再び炉に入る」

人間も熱い炉に入り、叩かれ打ちのめされて初めて本物となる。

そこから生じた思いこそが、熱意となり信念となる。

 

「企業は日となり」「PI(President Identity)が会社を変える」

会社と創業者は一心同体である。創業者の死とともに終焉を迎えるそれも道。

しかしそれを避けるには、組織力である。

個人力から組織力へ、その移行が会社の命運をわける。

組織力とは、経営者が会社を愛し守るだけでなく、企業に参加する社員が、経営者的物の考えとなり、個々が団結して会社の繁栄に貢献すること。

そしてPIは宣伝ではなく、社長自身の考え方を末端まで浸透させ、社長の考え方を知ることで方向性を明確にし、目標を達成に対し社員と経営社が一心同体になること。

 

 

「日刊スゴイ人」http://sugoihito.or.jp/2018/02/17753/ より

株式会社損得舎代表取締役・『政経電論』編集長・佐藤尊徳氏による

佐藤正忠氏の思い出(佐藤尊徳氏は、雑誌「経済界」の元編集長)

 

【読んだこともない雑誌社に入社】

親からも早く就職先を決めてくれと言われており、『経済界』を受けると内定をもらえたのです。この年は23名の新卒採用をした、最も採用人数の多い年でした。

記者稼業を学んで独立しようという、甘い考えを持っての入社。

 

でも、入社すると記者や編集ではなく、配属先は創業者である佐藤正忠さんの随行秘書。

23名で秘書は私だけでしたが、なんか面白そうだから良いかなって。

佐藤正忠さんがどんな人かも存じ上げていませんでした。

入社3日目から主幹(佐藤正忠さん)の秘書業務。もう大変でしたよ(笑)

 

主幹は既に半身不随でしたので、男じゃないとダメで、2年間務めてきた先輩からの引き継ぎでした。

 

【理不尽すぎる環境】

主幹は6時に出社するので、私は5時45分には会社を開けるんです。

夜は、17~18時の1時間だけの宴会をします。

10人程集めて、1時間で会を回すんです。

 

孫正義さんに対しても平気で怒鳴りつける人だし、政界、財界に対する人脈や影響力も相当あり癇癪(かんしゃく)持ちの主幹の秘書業務を20歳そこそこの私が務めるんですよ。

想像してみて下さい。きっと皆さんの想像を遥かに超えていると思います(笑)

綺麗な秘書と言うより、とにかく大変な秘書。

私が優秀というより、コイツなら何とかもつんじゃないかと思っての配属だったと思います。

 

入社して数日後からはいつも辞めてやる!と思っていました。

本当に笑い話になるぐらい理不尽だし(笑)

私が直接した事ではないのに、イライラして私に当たってくるのは日常茶飯事。

いつか殺して俺も死んでやる!と思ったりしましたが、とりあえず3年間だけは石に齧(かじ)りついてでもやってやろうと思ったんです。

でも、最初の1年間はこちらから話しかけることなんて、怖くてできませんでしたけどね。

 

【政財界とのお付き合い】

当時はゴルフ接待も頻繁で、休みなんてほとんど無かったです。

ゴルフ場も朝一番で開けさせるんです。

プレーする朝一番じゃなくて夜明けと共にゴルフ場を開けさせてプレーするんです。

最後はクビ覚悟で主幹に良くないことだと伝えて、やめてもらいましたが(笑)

 

役員も主幹に言いたいことを私に頼んでくるんです。

私も生意気だから、なんで俺が役員でもないのに言わなきゃなんないんだよ、とか思ったり。32歳で取締役になり、編集局長になりましたが、実際は辞めるまで秘書みたいでしたね。・・・・(後略)