2018年12月3日(月)感性論哲学入門講座開催

今年最後になりました感性論哲学入門講座

思風先生が滅多に話しをしない「人間の境涯」についてをテーマに解説頂きました。

人間の境涯

まず、背景から

現在は

人間が人間に憧れる時代に入ってきた。

憧れにおいては、人間の本質を把握する事が大切で

・肉体、理性、感性の3つが本質としてあげられます。理性の時代はルネサンス(宗教)、ここには合理性の憧れ、そこには不条理、不合理が根本にあり、それを取り除くために合理性の追求が行われてきた。

その後、感性を言い始めたのはアンリ・ベルクソン

ベルクソンについて少し。

[1859~1941]フランスの哲学者。近代の自然科学的・機械的思考方法を克服、内的認識・哲学的直観の優位を説き、生命の流動性を重視する生の哲学を主張。1928年ノーベル文学賞受賞

実存主義をかじった人間としては、久しぶりに聞くベルクソンで、ハイデガーとよく比較されてベルクソンが出てきたのを思い出し、難しそうなハイデガーを見て理解出来なかったのですが、ハイデガーに影響を受けた和辻哲郎(京都学派)の風土を思風先生はよく引用されており、「風土が人間に影響する」

ベルクソンの分かりやすい例として

「ベートーヴェンの交響曲」において作曲家を突き動かしていた情動を例に挙げ、「この類の情動は多分、非常に遠いとはいえ、神秘家にとって神の本質そのものである崇高な愛に似ている」と述べて、知性より上の情動を神秘主義が「神」そのものと見なす「愛」と重ねている。しかもこの愛は、自らから区別された対象を持たない。「上位の次元の情動はそれ自身で自足している」。「愛はその本質によって形容されるのであり、その対象によって形容されるのではない」

次にベルクソンの二源泉について

キリスト教神秘主義の起源にキリストの存在を認め、全ての神秘家は「福音書のキリストが完全にそうであったものの、独自だが不完全な模倣者であり継承者たちである」とまで言う。「キリストが人間と呼ばれたか否かは重要ではない。彼がキリストと呼ばれたかどうかでさえ重要ではない」。たとえイエスの歴史的実在性を否定しようと、「山上の垂訓」や「その他諸々の神的な言葉」、そしてそれを書いた福音書の著者の存在を否定はできず、重要なのはその内容である 

哲学をかじった人間として実生活に役立つ感覚があり嬉しいのですが

やはり風土というか家庭環境に影響を受けるのだなと思い、親の影響で興味が無くても耳にする事があったニーチェ、カフカ、ドストエフスキー、サルトル辺りが強烈に印象に残っていて、お爺さんからは谷口雅春先生を教えてもらい、母親の同じ町の出身にエルカンターレ様がいて、それぞれ学びたいと思わなくても耳にしているといつの間にか知識となり、そこから疑問を持ち、というのがきっかけで考え方以上にその人の生き方、生き様や生い立ちからどんな経験をしてきたかに興味を持つ子ども時代で、恐らく非日常の世界に対して興味を持つ子どもだったので(笑)それが描かれる小説、哲学、音楽、革命家、思想家と反体制、反権力と極端なケースに興味を持っていました。

なので、時代、風土(土地)などの環境と出会った人、教えがその人を創る根本になるのではないかと。思う所があるため、思想や○○主義よりもそれを語ったその人の人生、生き様を見る方が個人的には興味あるところであります。そのいろいろを知るのが問う事でもあり、父親から教えられた1つに、ニーチェを読んでみたらその間逆も読んで見て自分で決めろ!と。世間的には評価されない実存主義ではありますが、視点を変えると神を否定し、人間そのもの個々人こそ大切だ!ニーチェ曰くは超人、サルトル曰くアンガージュマンで流されずに自立する行動する!というのは実存の中でも学ぶべき点なのかなと。

また、意外にも書籍を見ていると現在の日本の社会を取り巻く、心の病についてはドストエフスキーの地下室の手記で描いた世界や、サルトルの嘔吐、安部公房の箱とか砂とか壁とか要は引きこもり、ニートで世の中の不条理をまざまざと現していて、結構今の時代共感するかも。。極めつけに太宰の人間失格が来たりしてよくぞここまでマイナス思考になれるなと思うのですが、それも当時戦争が存在し、人種差別、封建制と様々な不条理が背景にあったからこそなのかなと思うところです。

 

釈尊も「生老病死」の存在として人間を直視するところからでマイナス思考からの出発(人生は苦である)ありのままの姿を捉えて、現世を生き抜く事こそ大切だと。

五木寛之、大河の一滴からも
他人に期待しない。人生に期待しない。
マイナス思考のどん底のなかからしか本当のプラス思考はつかめない。

地獄のなかで、私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇蹟のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。皆とともに笑いころげるときもある。
その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるのでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。人が死んだのちに往(い)く最後の場所では決してない。

「地獄は一定(いちじょう)」そう覚悟してしまえば、思いがけない明るい気持ちが生まれてくるときもあるはずだ。


思風先生も感性に出会ったきっかけというのは講演時にお話しする事は殆ど無いと思いますが、基を辿ると中学時代のあるきっかけが基で人間が深くなるには?→真理と真実について研究し、フォイエルバッハやベルクソンにたどり着く訳であります。

感性論哲学においては、目的に大きく2つあり、平和と全人類の人間性の成長。

人間性の成長については、深さ、広さ、大きさの3つ。

大きさは価値への情熱!理想や理念と言いかえれる所で、広さは包容力、認める

ここは凄く感じる所でもあり、清らかな心を持っている人であっても他の価値観が入ると人間性が変わってしまうケース(お金とか)が多々あり、それを頭で心の広い人間を理解するよりも他ではなかなか聞く事の出来ない思風先生のお金の使い方、不条理を持ちながらも感性論哲学を説いて実践しているその生々しい実践を聞く事が出来ます。

そして、歴史的に宗教家や哲学者を見ていると、残り続けている思想はそれなりに価値があるんだろうと思いますが、それは書籍の中で書き残されたものだけではなく、対面で聞いてやってみるをつなぎ続けてきたお弟子さんがいるからこそ釈尊は書籍を残さなくても残り続けて、吉田松陰も書籍だけであれだけ魂の持ったお弟子さんが続くとは思えず、生き方生き様なのかなと。今だと松下幸之助さん、稲盛和夫さん、など実利で何かを成したももちろん大切なのですが、大きい視点、長い目で見た時は生き様がつなぎ続けていくのではないかと思う所で思想や哲学も、何を説いたかよりもその後お弟子さんに引き継がれているか?で見ていくと違う角度で見れるのかなと。