釈正輪老師講和会

第3回となります

釈正輪老師講和会開催

古代を知るというテーマは、現在の不安定、不確実な世界の中で日本、日本人は伝統、文化、精神が世界に誇れる事であり尚且つそれが貢献出来るのではないかと。

その元々のルーツというのは様々な考え(宗教、学問etc)を受け入れてきた文化のある日本がどういう経緯で他を受け入れ認める様になったのかを知る事が大切ではないかという考えの下、戦いの歴史で創られてきた日本の歴史よりもその前の時代を学ぶ事で何かしらヒントや今まで知らなかった気づきがあるのではないかと思います。

釈先生からは元々、ご自身がこの道にすすむきっかけについてをお話頂き 歴史については、学生時代に日本史や国語の先生が興味深く話をして頂きそれがきっかけで 興味を持つきっかけが出来たとの事です。

好きになると熱中する。詳しくなるが その後、海外に行く機会が増える中で 学んだ日本史が全然違うという事が分かっていった。

それは以前の講和会でも 仰って頂いた様に 歴史にはいろんな考えや解釈があり 勝者の歴史として受け継がれてきたのが現実。 それを認識した上でいいところは受け継ぐ、宜しくないところは受け継がない

今回のテーマの「古代を知る」は 釈先生のご経歴を基に、仏の道に入るきっかけ、そしてお釈迦様がどの様な 想いで活動されていたのかを最初に解説頂きました。

それは本来の仏教の姿を見つめ、問い直し 本来の姿を基に活動を行うという事で 大切なのは お釈迦様は説法をして歩き回っていたという事。 それを36歳から80歳で亡くなるまでの間、ずっと続けてこられ 現在の釈先生の活動が講和会が中心になっているのも お釈迦様が説いた本来の仏教の姿、つまり仏教の主たるものは人を生かす!

しかし、今は亡くなった方の供養がメインとなってしまっている。 それよりも生きていること、生き続けていることの大切さ 生きるという事は苦しい、それをお釈迦様は発見したが 苦しい悲しいがあっても必ずそこには意味があると。

「人間の心の中から全て苦しみが生まれる」


心の境地を仏道と捉え四諦という言葉で
苦諦:苦という真理(このなかに生きる悩み、老いる悩み、病気の悩み、死ぬ悩み)
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理
という事で4つの苦しみがさらに細分化して四苦八苦という言葉が生まれた。

お釈迦様は上記の様な悩み、苦しみを心を正して不安を少しでも和らげていく為に正しい言葉、姿勢、反省をする事が大切
そして

「志命があって意味があって生まれてきている」

幸せになる為に私のことを認めてくれる人がいて、私の周りにいる事が大切とお釈迦様が説いている。

 

お釈迦様は現在のインド(当時北インド、現ネパール)でシャカ族(シャーキャー族)の王様として29歳までは過保護に豪遊生活をしていたが、外の世界を見た時にこれではいけないという事で6年間修行に出て何故生まれ、老い、死ぬのかを問い続け、その後80歳の2月15日に亡くなるまで対話説法を続けていたと。

私と相手同じ目線で見てくれる、認めてくれる人がいる時にカルマというのが浄化され
ブッダになっていく(なお、ブッダは誰という事ではなく誰でもなれるとの事で悟りし者の名前)
その為にも対話説法を重視して行っていたとの事です。つまり、絶対的な権威があって、これでなければいけない!という事ではなく、その人その人に合わせて同じ目線で見ていたという事かなと思います。

その様な想いで30年近く釈先生は講和会を続けている事を紹介頂きました。

和の精神は
単に仲良くという事ではなく、争い耐えないこの世の中にあって、たとえ相手がどのような者であれ、それを赦し、受け入れ、認めるという事。責め裁き、恨み憎み、否定することではなく、許し、祈り、活かすことそして、これこそが正に私たちが先人たちより受け継いできた、和の精神の基である事なのかなと。

釈先生曰く
日本史においては8世紀頃までしか研究されていない。
しかし重要なのはその前の段階であると。

昔の昔を辿ると
私たちが教えられてきた「日本人は単一民族である」⇒ここが間違い

祖父母の世代では
尋常小学校では「神様の子孫」と習い
天照大神とスサノオノミコトの日本神話があり、そのおふたりから続いていく日本人は神の直系の人間とされていた。
それに対し、旧約聖書の創世記では「土から神が人間を作った」との事
とここまで前置きで
「日本人は多民族である事(⇒ここ重要)との事です。

※世界で類を見ない位血が混じった多民族
現在の教科書では縄文人からスタートする形になっているが、
既に縄文時代には下記の様な民族がいたと。
宮古島や沖縄近辺のクマソ
鹿児島のハヤト
出雲のオロチ
難波のツチグモ
関東から岩手、青森にかけてエミシ
北海道のエゾ(アイヌ)
これらの民族は全て船に乗って狩りをしていた。
教科書にある様で無いこの紀元前の民族がどの様にして生まれたのか?どこから来たのか?
等々を講話会の中で聞く事が出来ます。

縄文時代は実は海洋民族であり(別名コロボックルとも言います)、鯨やイルカ、オットセイを主食としていた。また稲作は水稲栽培を行っていて、どんぐりやしいのみで防風林も作っていた。それが二千年から三千年も文明が続いていたと言われていて、世界各国の文明が約200、300年に対して縄文文化は2000年、3000年と続いた背景には、世界中の血が混ざっている日本だからこそ他民族(多民族)を受け入れる平和的な感性を持ちえたからこそ出来た文明ではないか。

そこにはDNAも関連していて

染色体がAからTまでの25あるうち、YAP遺伝子と呼ばれるものがありYAP遺伝子は、親切遺伝子とも言われ、日本人特有の親切さや勤勉さなどもこの遺伝子の影響が多大にあると思われます。
村上和雄氏によると「YAP遺伝子は自分を捨てて他人に尽くす遺伝子」だといいます。
日本人は、モンゴロイド系で、遺伝子は日本固有YAP(-)を持ち、これは中国人、韓国人、フィリピン人にもない遺伝子であり、YAP遺伝子は縄文人固有の遺伝子ではなく、中東から来たといいます。
古代イスラエル人と日本人くらいしかいないともいわれ、Y染色体DNAのD系統を高度で持つことで有名であり、Y染色体DNAのD系統は、日本人とチベット人や中近東の人の他には、世界のどこにもほとんど存在しないそうです。
YAP遺伝子は、親切遺伝子とも言われ、日本人特有の親切さや勤勉さなどもこの遺伝子の影響が多大にあると思われます。 

A:クロマニヨン人

B:ネアンデルタール人

D1:チベット、タスマニア、日本それぞれの男子のみが持ち合わせている

E:イスラエル

その中でD2と呼ばれるものは日本人の男子のみが持ち合わせている染色体(特にアイヌ、オロチが持ち合わせていた)

その様なDNAの観点からも、日本人はシルクロード(エジプト)から大陸を横断し、最終的に飛鳥(奈良)にたどり着いた。そのたどり着くまでに様々な血が混ざり合っているが利他の精神、平和的な感性を受け継ぐ事が出来、それが今も日本人のDNAに引き継がれている。

和の精神、和の文化を紐解いていくと
知らないことが多々あり、新たな気づきを与えてくれます。

 

[metaslider id=”26484″]