言志四録

1.「言志四録(げんし-しろく)」とその時代

 

今日、「日本の論語」「人生訓の名著」「指導者(リーダー)のための教科書」と言われる『言志四録(げんし-しろく)』は、江戸時代末期の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)が著した随想録・語録です。

佐藤一斎は、42歳で筆を執った『言志録(げんしろく)』を皮切りに、『言志後録(げんし-こうろく)』『言志晩録(げんし-ばんろく)』を著し、最終作となる『言志耋録(げんし-てつろく)』を書き上げたのは82歳のときでした。(耋録(てつろく)の耋(てつ)とは字のごとく老いに至るという意味です)。

後にこの4書を『言志四録(げんし-しろく)』と総称するようになります。内容は学問修養の心得、倫理道徳の規範から、指導者論、そして処世の教訓、身体の養生法まで多岐にわたっています。

全体で1133条ありますが、明治維新を導いた薩摩藩の西郷隆盛は、『言志四録』を座右に置き愛読書としていました。さらに、その中から101条を撰び、修養の資(もと)として暗誦するほど読みこみました。

西郷の死後、叔父宅に保存されていたのを、儒学者だった秋月種樹(あきづき-たねたつ)が注釈を加えて明治21年に『南洲手抄(なんしゅうしゅしょう)言志録』として刊行しました。これにより、西郷が『言志四録』を座右の書としていたことが、広く知られることになります。

このセミナーでは、ビジネス社会においてリーダーが知っておいてよいと思われる「言志四録」について、西郷隆盛が選んだ101条を中心に、私たちの人生に役立つ名言をご紹介するものです。皆さんの人生において、役に立つことを願っております。

 

 

(1)「言志四録」の著者・佐藤一斎(いっさい)について

 

佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)に、江戸浜町に生まれ、江戸で育ちました。没年は、 安政6年9月24日(1859年10月19日)で、88歳の天寿を全うしました。当時としてはかなりの長命です。本名は坦(たん)といい、一斎は号です。

父親は、美濃岩村藩の家老、佐藤信由で、一斎は、二男二女の末子でした。二十過ぎまで江戸藩邸で育ち、早くから秀才であり、幼年時から「論語」など儒教の経典を学んできました。半面、豪放でやんちゃな一面も持っていたようで、武芸にも秀で筋力も強かった彼が、夜間に酒に酔い、親友とともに道行く者を倒して歩いたという、穏やかでない逸話も残っています。

一斎は、19歳で、岩村藩主・松平乗保の近侍として仕え、正式に武士の籍を得ました。ところが、早くも翌年には職を免ぜられ、自ら願い出て士籍を脱して浪士となります。どのような理由によるのか、はっきりしませんが、一説には、友人と川で舟遊びをしているとき、船が沈没して、友人がなくなった事件があり、その責任を取ったといわれますが、確実なことは分かりません。

 

それでも士籍にあった時代に先代藩主・松平乗蘊(のりもり)の第三子・衡(たいら:一斎より五歳年上)との縁が深くなります。衡(たいら)と一斎は、幼なじみの友人であるとともに、のちには師弟の間柄となり、終生、深い縁によって結ばれました。

衡(たいら)は、後に幕命により当時の儒学の宗家というべき大学頭(だいがくのかみ)林簡順(はやし-かんじゅん)の養子となり、大学頭・林述斎(じゅつさい)となって、幕府の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)の学長になります。昌平黌の整備に大きな功績があった優れた人物です。

 

一斎は、21歳の時、自らの願いによって士籍を脱し、大阪に遊学して、懐徳堂の儒者であり、同時代を代表する大学者である中井竹山(ちくざん)の下で半年にわたって学問に専念します。また、京都で皆川淇園(きえん)に見(まみ)える等その見聞を広めます。一斎は、22歳で江戸に帰り、官学(朱子学)の宗家である林家(簡順)の門に入ります。学問をもって立つという志を固めたのでした。

 

まもなく林簡順がなくなり、一斎の幼友達でもある林述斎がその後継者になったので、一斎は改めて述斎にたいして子弟の礼をとり、文化二年34歳の時、林家の塾長となります。述斎が昌平黌(しょうへいこう:幕府の大学)の学長とすれば、一斎は副学長格であり、述斎の右腕として学生の教育にあたりました。

 

1841年7月、述斎が亡くなると、11月、一斎は、71歳の高齢で昌平黌(しょうへいこう)の儒官(幕府大学の学長)となりました。以後1859年享年88歳で御茶ノ水にある官舎で没せられるまで、終生、現役の儒官(学長)として、講義や著作に打ち込みました。

 

一斎先生の門に学んだ人々は数千人になるといわれますが、その中でも有名な人物は、山田方谷(やまだ-ほうこく)、佐久間象山(さくま-ぞうざん)、安積艮斎(あさか-ごんさい)、大橋訥庵(おおはし-とつあん)、横井小楠(よこい-しょうなん)など、幕末を代表する学者や思想家がいます。

このうち、幕末日本の先覚者といわれる象山(ぞうざん)の門下から、勝海舟(かつ-かいしゅう)、坂本竜馬、吉田松陰(しょういん)、小林虎三郎などの幕末の日本を動かした志士が輩出しました。

また、吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなります。

 

佐藤一斎の晩年である嘉永6年(1853年)に、ペリーが率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の艦船4隻が、日本に来航しました。幕府はペリー艦隊を江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導し、アメリカ合衆国大統領の国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ります。

この事件から明治維新までが「幕末」の動乱の時代になるわけですが、佐藤一斎80代の高齢でもあり、また、学問一筋の教育者(現代でいう東京大学学長の地位)であったこともあり、幕末の政局に直接かかわることは有りませんでした。

しかし、一斎の門下生から、たくさんのすぐれた人材が輩出し、幕末から明治にかけて近代日本を形づくるに当って大活躍したのでした。また、生前に次々と刊行された『言志四録』によって、一斎と直接面識のない幕末の志士にも大きな精神的影響を与えたのです。

なかでも、西郷隆盛は、『言志四録』をほとんど暗誦するまで繰り返し熟読してその中から101の言葉を選び出したのでした。こうして『西郷南洲(なんしゅう)手抄(しゅしょう)言志録』が生まれたのです。佐藤一斎の教えは、『言志四録』によって、ことに西郷隆盛によって、明治維新の精神的支柱となったと言えます。

 

 

(2)「言志四録」とは

 

「言志四録」は、佐藤一斎の人格と学問が結集した名著で、40年をかけて書きつづられた随想録です。

一斎の生前に『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の4書として出版されました。その総称を「言志四録」といいます。比較的短い箴言(しんげん)の集まりですが、記載されたものは全体で1133条にもなります。西郷隆盛は、その中から101条を抄録して、繰り返し味読しました。

 

「言志四録」の執筆時期や、佐藤一斎の年齢、内容条数と『西郷南洲手抄言志録』での抄出条数等は次の通りです。

 

『言志録(げんしろく)』 一斎42歳(1813年)から53歳までの

11年間の執筆、全246条。刊行は1834年。

→西郷隆盛による抄出は246条中28条。

 

『言志後録(げんし-こうろく)』 一斎57歳(1828年)から67歳までの

10年間の執筆、全255条。刊行は晩録と一緒に1850年。

→西郷隆盛による抄出は255条中20条。

 

『言志晩録(げんし-ばんろく)』 一斎67歳(1838年)から78歳までの

12年間の執筆、全292条。刊行は前記の通り1850年。

→西郷隆盛による抄出は292条中29条。

 

『言志耋録(げんし-てつろく)』 一斎80歳(1851年)から82歳までの

2年間の執筆、全340条。刊行は1853年。

→西郷隆盛による抄出は340条中24条。

 

 

(2)「言志四録」と西郷隆盛

 

<佐藤一斎と西郷とは面会の機会がなかった>

佐藤一斎が生まれたのは、安永元年(1772年)10月20日、西郷隆盛が生まれたのは文政10年(1828年)12月7日で、55年の差があり、年齢的には祖父と孫の関係でした。

西郷が主君斉彬(なりあきら)に見出されて、側近のお庭番として江戸に出たのが、安政元年(1854年)、26歳の時で、それから斉彬(なりあきら)が急逝する安政5年(1858年)、30歳までの間が、斉彬に親しく教育指導されながら各界・各藩の人々と交流して、「薩摩に西郷あり」と注目されるようになった期間です。

その間に、当時江戸の学界の中心人物で、弟子三千人と言われた佐藤一斎と会ったという経籍は残っていません。南洲の記録にも、一斎の名前は出てこないことから、二人が直接面会する機会はなかったものと思われます。

直接面識のなかった佐藤一斎に西郷が傾倒するになったのは、沖永良部島(おきのえらぶじま)での遠島生活の際に携行した数百冊の書物の中に『言志四録』があったことによるものです。

 

<遠島時代に、西郷は、言志四録を真読する>

斉彬(なりあきら)の急逝によって薩摩藩の実権をにぎったのは、斉彬の弟である久光(ひさみつ)でした。

文久2年(1862年)3月、久光は幕府と朝廷との関係を調停するため、薩摩藩の兵を引きいて京都に上京することにし、西郷を先発隊として送り出しました。もともとは下関で待機して久光一行を待つように命令を受けていた西郷でしたが、京大阪の情勢が大変緊迫していることを知ると、3月22日、村田新八らを伴い大坂へ向けて出航し、29日に伏見に着き、過激派の志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みました。

しかし、4月6日、姫路に着いた久光は、西郷が下関での待機命令を破ったこと、西郷が志士を煽動しているとの誤った報告を受けたことから激怒し、西郷の捕縛命令を出します。捕縛された西郷らは4月10日、鹿児島へ向けて船で護送されました。

 

久光の逆鱗に触れ、薩摩へと送還された西郷は、その後藩から徳之島への遠島を申し付けられました。

そして文久2年(1862年)8月に西郷は沖永良部島(おきのえらぶじま)への遠島替えを命令されることになるのですが、沖永良部島での西郷の遠島生活は、峻烈を極めました。

西郷は、昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことがうかがわれます。

西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づいていったのです。

 

沖永良部島(おきのえらぶじま)の吹きさらしの牢での日々は過酷を極め、西郷は骨と皮ばかりにやせ衰えますが、見かねた役人の一人・土持正照(つちもち-まさてる)の働きで座敷牢へ移されます。座敷牢でも謹慎の至誠を崩すことなくひたすら読書と瞑想に励み、内省を深めました。その書物の中に『言志四録』もあったのです。

『言志四録』は一斎が四十年もの歳月をかけて著した畢生(ひっせい)の名著であり、南洲は同書をほとんど暗誦するまで繰り返し熟読して101の言葉を選び出したのでした。こうして『西郷南洲手抄言志録』が生まれました。

 

 

<西郷の活躍と明治維新>

西郷は、1年8か月の遠島生活ののち、薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)や大久保利通の後押しで政務に復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に大活躍します。西郷の力により薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰(ぼしん)戦争を巧みに主導して明治維新を成功に導きました。また、江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止し、江戸を無血開城させたことも大きな功績です。

 

戊辰戦争が一段落すると、明治維新の最大の功労者でありながら、地位に恬淡たる西郷は薩摩へ帰郷します。しかし、明治新政府の確立のために再び西郷の力が必要となり、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職します。

その時期に、西郷が大久保利通らと協力してなしとげたのが、廃藩置県(はいはんちけん)です。

廃藩置県は、実質的に諸大名から土地(つまり領土)や人民を新政府が取り上げることです。西郷も大久保も、この廃藩置県を明治維新の総仕上げという風に考えており、これを成し遂げないことには、江戸時代の封建制から近代日本に生まれ変わることができないという最も重大なテーマでした。

反面、廃藩置県には大きな危険が伴っていました。 廃藩置県というものは、大名という地位と特権を無くし、各藩の経済的基盤を奪い去ることにつながります。廃藩置県の発令とともに各地の諸大名が蜂起し、日本中に内乱が勃発してしまうかもしれません。そのため、西郷と大久保としては、慎重に事を運んでいかなければなりませんでした。

 

西郷を中心とした新政府は、明治維新の中核部隊であった薩摩、長州、土佐の三藩に「御親兵(ごしんぺい。政府直属の兵)」を差し出すよう命じました。廃藩置県断行の際に予想される各地の反乱に備えるために、大名の兵力を取り上げ新政府の軍事力を整備したのです。西郷自身、一時鹿児島に帰国し、鹿児島兵約五千人を率いて東京に戻ってきました。

また、西郷らは御親兵以外にも、日本の東西に鎮台(軍の機関)を置くことを決定しました。もし、廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際、迅速に鎮圧できるようにするためです。

このようにして、西郷は軍事面での強化を行なうと共に、6月になると木戸と共に参議に就任し、実質的な新政府の首班となりました。その後、制度取調会の議長となって、内政面での改革にも取りかかりました。

 

明治4(1871)年7月9日、木戸邸において、西郷ら新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されました。

しかし、会議は紛糾しました。この後に及んで時期尚早であるとか、廃藩を発表すればどんな騒ぎになるか分からないなどという慎重論が起こり、木戸や大久保の間で大激論となったのです。その激論を黙ってじっと聞いていた西郷は、ついに口を開きました。

 

「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、

その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、

おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」

 

木戸と大久保は、その西郷の一言で議論を止め、西郷の大きな決断力で、廃藩置県が最終的に決定されることになったのです。

明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県」が発布されました。

民衆はこの大きな改革に驚きました。また、各地の諸大名にとっては、この廃藩置県に怒り心頭だったことでしょう。地位と財産を一遍の詔勅(しょうちょく)によって奪い去られたわけですから、当然のことだと思います。

当時薩摩にいた島津久光は、廃藩置県を聞いて烈火の如く怒りました。久光は保守的な性格で、日本の政治形態は今までとおり封建制が望ましいと考えていたのです。それが自藩士の西郷や大久保らによって、廃藩が行われたと知るや、怒り心頭に達して、鹿児島の磯の別邸(現在の鹿児島市の磯庭園)からいく艘もの船を出し、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話が残っています。

しかしながら、西郷らが作り上げた御親兵や東西の鎮台が反乱に備えて各地ににらみをきかせています。久光や諸大名としては、廃藩置県に反抗するわけにはいきません。

このように廃藩置県という一大改革は、ごくごく平和的に達成されたのです。

日本に滞在していた外国の公使らは、廃藩置県が平和的に行われたことに驚愕しました。権利というものに敏感なヨーロッパなどにおいて、このような改革を行なえば必ず戦争になり、平和的な解決は想像できなかったからです。

西郷の徳望と決断力と慎重適切な軍事政策があってこそ、この廃藩置県という一大革命が成し遂げられたと言えるでしょう。

 

 

 

3.「西郷南洲(なんしゅう)手抄(しゅしょう)言志録」より

 

西郷隆盛が苦しい遠島生活の中で、自分の心を支え磨くために熟読したのが「言志四録」でした。その中から、101条を抜き出してメモにしていたものが西郷の死後10年ほど経て明治21年に刊行されたものです。(南洲(なんしゅう)は、西郷隆盛の雅号(がごう)です)

罪人として絶海の孤島に流され、そのまま死ぬかもしれないという厳しい環境の中で、34歳の西郷がひたすら自戒と内省のために愛読し抜き書きしただけに、その後の西郷の精神を支えた名言に溢れています。

ここでは、西郷隆盛が選んだ「言志四録」の名言のうちいくつかをご紹介いたしましょう。また必要に応じてそれに関連する「南洲翁(なんしゅうおう)遺訓(いくん)」の言葉をあわせてご紹介いたします。

なお、訳文や解説については、主として『西郷南洲手抄言志録を読む』(渡邉五郎三郎著・致知出版社)を参考にし、適宜、他の解説書によって直しております。

 

〈注〉「南洲翁遺訓(なんしゅうおう-いくん)」は、幕末の戌辰(ぼしん)せの役で、幕府方について西郷軍に降伏した庄内藩に対して、西郷が温情溢れる処置をし、それに感激した庄内藩の家老をはじめ、明治2年から明治8年にわたって薩摩藩に留学した藩士達が、西郷の言葉をまとめたものです。

当時の西郷は、明治維新第一の功労者として日本の陸軍総司令官や首相格の閣僚などの要職を務め、国政全般に深く関与・考察を重ねた後のことですので、より西郷らしさがにじみ出ています。

 

(1)天につかえる心

 

凡(およ)そ事を作(な)すには、

須(すべか)らく天に事(つか)うるの心(こころ)有るを要すべし。

人に示すの念(ねん)有るを要せず。

(言志録・第3条)

(現代語訳)

すべて事業や行動を起こすには、天(大自然・神・仏)に生かされていることを考え、それに感謝し、敬(うやま)う気持ちを忘れてはならない。

他人に誇り、認めてもらおうとする気持ち(私心)があってはならない。

 

この言葉は『言志四録』の中でもとても有名な章で、私たちが日常生活の中でつい忘れがちな真理を教えてくれています。

「天に事(つか)うる」とは、天を敬して己を尽くして誠実に生きることです。佐藤一斎は、上記の言葉をさらに短く、「尽己(じんこ:己を尽くす)」という二文字にして、弟子の山田方谷に書いて贈ったと伝わっています。

自分をあざむかずに、誠実に物事に取り組むことによって、はじめて人間が真実となり、自分が関わるところの一隅を照らすことができるようになります。一隅を照らす人間になれることが、この世に生きる私たちにとって最も肝要なことであり、他人の評価を気にする必要はないと一斎は教えています。

 

現代社会においては、他者との競争がつきものであり、世間からの評価がしばしば自分の利益につながるのですから、適度な「人に示すの念」は必要なものと言えるでしょう。しかし、それに囚われすぎると、自分を見失い、足もとを救われたり、自らころんだりします。

短期的にはともかく、長い眼で見れば、天の評価と世間の評価は一致してきますので、成果がなかなか上がらないときこそ、あせらずに「天につかえる」気持ちを大事にしましょう。

また、ビジネスが成功しているときには、ついつい思い上がって成功を他人に誇示したくなるのが人情です。しかし、思い上がれば周りが見えなくなり、環境変化を見逃すことがあります。

シャープが亀山工場での大成功に喜んで、さらに大規模な堺工場を建設しましたが、堺工場が出来た時には液晶テレビは性能よりも価格競争の時代に突入していました。そのため、サムソンなど韓国メーカーに敗れ、倒産状態に追い込まれたのは良い教訓ではないでしょうか。

過剰な自己評価は、天からの(世間からの)評価が下がると思って、気持ちを引き締めることが必要ではないかと思います。

 

なお、西郷南洲遺訓にもほとんど同趣旨の条文がありますので、以下にご紹介いたします。

人を相手にせず、天を相手にせよ。

天を相手にして己(おのれ)を尽(つく)し、人を咎(とが)めず、

我(わ)が誠(まこと)の足らざるを尋(たず)ぬべし。

(西郷南洲遺訓・第25条)

(現代語訳)

人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。

天を相手にして自分の誠をつくし、人の非をとがめるような事をせず、

自分の真心の足らない事を反省せよ。 

 

道(みち)は天地自然の物にして、人は之(これ)を行(おこ)なうものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我(われ)も、同一に愛し給(たも)ふゆえ、我(われ)を愛する心を以(もっ)て人を愛する也(なり)。

(西郷南洲遺訓・第24条)

(現代語訳)

道というのは天地自然のものであり、人はこれにのっとって生きるべきものであるから何よりもまず、天を敬う事を目的とすべきである。

天は他人も自分も平等に愛し下さるから、自分を愛する心をもって人を愛する事が大事である。

 

この条文について、渡邉五郎三郎先生は、以下のように解説されています。

「敬天愛人(けいてん-あいじん)」の言葉で知られるように、敬天は西郷南洲の精神・思考の原点であり、「人を相手にせず、天を相手にせよ」という思考・態度がその基本です。

幼い頃から、「お天道(てんとう)様が見ておられる」、「お天道(てんとう)様のお蔭(かげ)」という感謝の考え方、「生かされている身の有り難さを知る」ことが、人間の生き方の根本であることを、南洲は身につけていたのでしょう。

大内青巒(せいらん)居士(明治・大正時代)が

ありがたい

もったいない

おきのどく(おもいやり)

この三つで、仏の教えはすべて尽くされていると喝破(かっぱ)されたと伝えられていますが、日本人は幼い時から、お日様を仰ぎながら、天に生かされているということを、親から子へと教え伝えられてきたのです。

 

 

また、『修身教授録』で有名な森信三先生は、つぎのように開設されています。

<森信三先生の解説:『西郷南洲の遺訓に学ぶ』より>

p.127 相対をすてて絶対に帰する

 

この節は甚(はなは)だ簡明ではありますが、しかし翁の根本信念を示すにおいて、おそらくは、最も根本的な節と申すべきでありましょう。すべてはこれだけに尽きていると申してもよいのであります。

 

「人を相手にせず、天を相手にせよ」これすなわち相対(そうたい)をすてて絶対(ぜったい)に帰するということでありましょう。

 

人というものは、我と相対立するもので五分五分のものであります。かく相対的な五分五分の関係では、向うが変わればこちらも変わるのである。すなわち動揺(どうよう)恒(つね)なきものであります。向うが強ければこちらが引き摺(ず)られ操られる、これが相対的関係というものであります。

それから脱して天を相手にする、すなわち絶対を相手にして絶対に帰し、絶対に自己をささげる。そこではじめて相対的なる人情の離反(りはん)合不合ということによって一々自己が動かされることがなくなるのであります。

 

天を相手にすることによって、始めて人は己れを尽して人を咎(とが)めず、つねに自己の誠の足らざるを尋ねるという処にも到るのである。天を相手にすれば、己れを尽すということは自然に出来るのであります。(中略)

 

人を相手にしていると、人の態度が一々問題になります。人をはなれて、天を相手にすれば、人の事は第二義、第三義になって、成程(なるほど)よい方がよいには違いないが、しかし仮りによくしてくれなくても、それが第一義的な関心事とはならなくなるのであります。(中略)

道理からすれば「天を相手にせよ」とただそれだけでよい。天を相手にすれば、それ以下のことは自らにして出来るわけであります。

 

そこで又、「己れを尽(つく)して人を咎(とが)めず、わが真の足らざるを尋ねる」ということは、天を相手にするという態度を一歩一歩徹して行く。すなわち工夫の一歩一歩という意味を持つのであります。

 

 

「天に事うる」心は、佐藤一斎の教えの核心であり、同時に、明治維新の英雄・西郷隆盛を導いた言葉でもあります。私たちも、よくよく味わいたいものです。

 

 

(2)人生を明るくする心得

 

毀譽(きよ)得喪(とくそう)は、眞(しん)に是(こ)れ

人生の雲霧(うんむ)、人をして昏迷(こんめい)せしむ。

此(こ)の雲霧(うんむ)を一掃(いっそう)せば、

則(すなわ)ち、天(てん)青く日(ひ)白(しろ)し。

(言志耋録・第216条)

(現代語訳)

不名誉なこと、名誉なこと、成功すること、失敗することは、人生にとって雲や霧がかかるようなもので、人の心を暗くし迷わすものである。

この心の雲霧である毀誉得喪(きよとくそう)を一掃することが出来れば、天が青く日が白く輝くように、人生は誠に明るいものになるのである。

 

この章も、世間からの評価に迷わないようにと呼びかけています。前章の天に仕える心と同じ趣旨を述べているわけですが、それだけ人間というものが他人の評価に動かされやすいものであるからでしょう。

世間や他人の評価を全く無視するならば、暴走状態になりますから、仕事がうまく行きません。とはいえ、世間の評価には一定の時間差がありますので、つねに正しい評価が下されるとは限らないものです。世間の評価と自分の信念のバランスを取る工夫が必要であるということでしょう。

 

この条文について、渡邉五郎三郎先生は、以下のように解説されています。

人間が感情の動物と言われるように、生きてゆくための働きのほかに、その働きに対する評価――それは精神的・物質的な面での他から価値判断が出てくるものですが、それに動かされるということは、主体性がないということです。

先に勝海舟が維新後の地位について批判が出た時に、「批判は他人の主張、行蔵(こうぞう)は我に存す」と言って動じなかった例を紹介しましたが、自分が正しいと思う生き方をしている限り、他からの批判は、山にかかる雲霧のようなもので、気にする必要はありません。

「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となれば立処(りっしょ)、皆(みな)真(しん)なり」という仏語があります。そのような生き方をしたいものです。

 

 

「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となれば立処(りっしょ)、皆(みな)真(しん)なり」とは、臨済宗の名前の由来となった臨済(りんざい)禅師(ぜんじ)の言葉です。

「いつどこにあって、いかなる場合でも、何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、いついかなるところにおいても、外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことはない。そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり、自在の働きが出来るというものである。」(朝日カルチャー「禅語教室」より)という意味です。

 

これについて、山田無文老師(昭和を代表する禅僧の一人、元妙心寺管長)は、次のように解説しています。

 

臨済禅師は、「随処に主と作れば、立処皆な真なり」とおっしゃっております。どこへ行っても主になって、主体性を失うな、主人公になれ。そうすればその人の行動には間違いはない。こうはっきりと示しておられるのですが、これを、どこへ行っても自由に勝手なことをしてもよいというお言葉と解釈するなら、大変な間違いだと言わねばなりません。

 

「随処に主と作れ」とは、威張れということでもなければ、自由に勝手なことをせよということでもありません。どこへ行ってもその場所を愛せよということです。愛情を持てということなのであります。

 

 たとえば、電車に乗っていて、これは自分の電車だと思うなら、紙屑一つ落とせんはずです。公園も俺のものだと思ったら、花一本折ることもできないでしょう。京都を俺の街だと思うなら、京都を愛さずにはいられません。それぞれの街を自分の故郷と思えるなら、その土地を愛さずにはいられません。日本は俺の国だと思ったら、日本を愛し大切にせずにはいられんはずです。

 

そのように、すべてが自分だと思い、そこに愛情をもっていくならば、間違ったことなどできんと、臨済禅師は言われているのであります。

 

 

「毀譽(きよ)得喪(とくそう)」という世間の評価に動かされず、自分がいる場所や仕事や関わる人に愛情をもってかかわること、そうすることによって、人生は明るいものになっていくということです。

佐藤一斎は儒学者ですが、儒学も禅(仏教)の教えも、同じことを伝えています。

 

 

(3)一燈の明るさを頼りに進む

 

一燈(いっとう)を提(ひっさ)げて、暗夜(あんや)を行く。

暗夜を憂(うれ)うる勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼(たの)め。

(言志晩録・第13条)

(現代語訳)

暗い夜道をひとつの提灯(ちょうちん)をさげて行くとき、闇夜の暗さを心配するのではなく、ただ提灯の明るさを頼って行けばよい。

(後ろを向いて不安がるのではなく、前を向いて進め)

 

「言志四録」の中でも最も有名な言葉の一つです。ここでいう「一燈」とは、すべての人の心の中にある霊的な光(心の力)のことです。禅宗では仏心といいます。人が前向きに進もうとするとき、心の光は、意志となり、知恵となって、行く先を照らしてくれるということを佐藤一斎は述べています。

逆にいえば、心が光を失って暗く沈むとき、たとえ行く先に明かりがあっても、その明かりを見失って、暗闇にさ迷うことになるとも言えます。そうならないために、日ごろから古典を学び、心を磨いて行く必要があるのではないでしょうか。

 

なお、この条文について、渡邉五郎三郎先生は、以下のように解説されています。

「自分の提げる一燈が何であるか、それを決めるのは自分以外にはありません。幸せを真剣に求めるのであれば、それを選ぶために真剣に学び、考えるべきです。そのために多くの先人がおり、その教えが古典として残されています。(中略)。次のような詩もあります。

 

【一隅を照らす】

一隅を照らすもので 私はありたい

私のうけもつ一隅がどんな小さい

みじめな はかないものであっても

わるびれず ひるまず

いつもほのかに照らしてゆきたい

田中義雄

〈参考〉

*「暗いところばかり見つめている人間は、暗い運命を招き寄せることになるし、いつも明るく明るくと考えている人間は、おそらく運命からも愛され、明るく幸せな人生を送ることができるだろう」(新井正明)

*「人はその性格にあった事件にしか出会わない」(小林秀雄)」

 

 

 

(4)心の霊光

 

(前略)・・・心の霊光は、太陽と明(あかり)を並(なら)ぶ。

よくその霊光に達すれば、即ち習気(じっけ)消滅して、これが嬰累(えいるい)を為すこと能(あた)わず。

聖人、これを一掃(いっそう)して曰(いわ)く、何をか思い、何をか慮(おもらんぱか)らんと。

而して、その思いは「邪(よこしま)無き」に帰す。

「邪(よこしま)無き」は、即ち、霊光の本体なり。

(言志後録・第9条)

(現代語訳)

心の霊妙な光は、太陽と明るさを同じくする。心が霊光に達したならば、妄念邪気は消え去って、それらがわずらいをなすことはできない。

聖人は、これ(妄念や邪気)を払いのけて言うには、「何を思い、何を考えることがあろうか(何も思慮するところはない)」と。

つなり、われわれの思いに邪念がなくなれば、それでよいことになる。この邪念の無いということが、心の霊光の本来なのである。

 

 

<久須本文雄(くすもと-ぶんゆう)先生の解説より>

本条は、禅仏教的には言えば、仏心・仏性の月が明煌々(こうこう)と光り輝いているならば、たとえ煩悩・妄想が現れても、たちまち消え去って跡形を留めないのと同じで、これを「没縦跡 (もっしょうせき)」といっている。これは大悟徹底した自由無碍(むげ)な無心の境地である。・・・(後略)

 

 

(5)仮己を捨て真己を得よ

 

仮己(かこ)を去って真己(しんこ)を成し、

客我(きゃくが)を逐(お)うて主我(すが)を存(そん)す。

是をその身に獲(とら)われずと謂(い)う。

(言志後録・第87条)

(現代語訳)

常住ではない仮の存在としての自己というものを捨て去って、本来の真実の自己を現状させ、あるいは、邪念・妄念を追い払って、心の奥にいる本来の自己である主人公-仏性・良心-が存在させるようにさせる。

これを何物にもとらわれない自由無碍にして任運自在(にんうん-じざい)な境地というのである。

 

 

<久須本文雄(くすもと-ぶんゆう)先生の解説より>

これは禅家の識心見性について述べたもので、一斎が禅的なものを解明した最初の一条といえる。

真己(しんこ)は、本来的自己・本質的自己にして、霊性的自己であり、仏性であり、主人公であり、無位の真人であり、本来の面目である。

仮己(かこ)は、仮有的自己・感性的自己にして、生・住(存続)・異(変化)・滅-生老病死-する無常的自己である。

人間は、この本質的・霊性的自己-非日常的自己-と感性的・肉体的自己-欲望に生きる日常的自己との二つの自己とともに、人生の道を歩み続けている旅人である。

この日常的・感性的な欲望の自己-邪念・妄想-を払拭すれば、純真な本質的自己たる主人公-仏性・本来的面目-を現成(げんじょう)さすことができる。・・・(後略)

 

 

(6)道心とは

 

人はまさに自ら我が躯(み)に主宰(しゅさい)有るを認むべし。

主宰は何者たるか。物は何(いず)れの処(ところ)にか或る。

中を主として一を守り、能(よ)く流行し、

宇宙を以て体と為し、鬼神を以て迹(あと)と為し、

霊霊(れいれい)明明(めいめい)、至微(しび)にして顕(けん)、

呼びて道心となす。

(言志後録・第104条)

(現代語訳)

人は自分の身体に自分を支配-統御-するところのものが存在していることを知らなければならない。

その支配するものとは一体何者であるか。

また、その物はどこにあるのか。

それは中正の道を専一に守り、あまねく行きわたり、よく変化し、

この宇宙をもって本体となし、鬼神のような行動をし、

霊妙にして明らかであり、極めて微細にして、しかも顕著なものである。

人はこれを呼んで、道心といっている。

 

 

<久須本文雄(くすもと-ぶんゆう)先生の解説より>

わが身を主宰する所の道心について述べたものであるが、この道心は禅仏教でいう仏心であり、仏性であり、妙心である。

「一を守る」とは、守一(しゅいつ)=主一で、心を専一にして余念のない意であるが、禅家では、「守一無適(しゅいつむてき)」といっている(儒家の「主一無適」と同じ)。

無適の適とは「行く」「おもむく」で、心を外境に馳せないことである。「守一無適(しゅいつむてき)」とは、心を一に専注する、物になりきる、純一(じゅんいつ)無雑(むぞう)になる、すなわち仏教でいう定(禅定・三昧)である。朱子学では、「主一無適」を解して「敬」と称している。

 

 

(7)自己喪失

 

己を喪(うしな)えば、斯(ここ)に人を喪(うしな)う。

人を喪(うしな)えば、斯(ここ)に物を喪(うしな)う。

(言志録・第120条)

(現代語訳)

自分を見失う-自分を損ない、自分を顧みなくなる-と、周囲の人が自分から離れていく。周囲の人を失えば、物を失う-ものごとがうまくいかなくなる-ことになり、ついには自滅することになる。

 

 

この条文については、安岡正篤先生の直弟子の一人である菅原兵治(ひょうじ)先生が、素晴らしい解説を書かれていますので、以下にご紹介します。

菅原兵治全集第三巻「言志四録味講」より

 

近来、設備や組織の「物」の過大化にともなって、しきりに「人間喪失」ということがいわれるが、しかし、この場合の「人間」には概念的意義が強く、その中に自己が入っていることを忘れがちではあるまいか。

 

それに対して、一斎は「自己喪失」を取り上げているが、この方がはるかに切実である。

 

「己を喪えば、斯(ここ)に人を喪う」と彼はいう。

すべて事をなすには、自分一人で出来るものではない。小にしては一家の経営から、大にしては大企業の経営、さらに天下国家の経綸に至るまで、人々の協力を得て事が運ばれるものである。社長一人がいかに威張ってみても、幹部をはじめ従業員がついて来なければうまくいくものではない。

 

人をうしなえば、事業はうまく行かず、したがって物の生産もうまく行かず、「人を喪(うしな)えば、斯(ここ)に物を喪(うしな)う」となる。

 

農家のことわざに「不作でつぶれた家はないものだ。家がつぶれるのは、不和からである」といわれるのも、この故である。

 

一斎は、人を喪い、物を喪う根元は「己を喪う」からであるというが、己を喪うとは、その立場における「あるべき我」がくずれ、正常性を失ってしまうことである。

 

正しい我、健やかな我、高い我、大きい我、清い我、明るい我、これらの「生々の徳」をもつ我。それこそが一切の本である。(中略)

 

思えば、政治も教育も、産業も経済も、畢竟(ひっきょう)するに、その事に当たる人の徳によって運用されるもの。かくて「自己喪失」は、一切喪失の本であり、自己確立こそが、一切成長の本である。

 

 この意味において、言志四録におさむる幾百章は、これを要するに自己喪失を防いで、正しい自己を確立するためのものといえるであろう。