禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会開催

古典に学ぶ人間学勉強会

今回は曹洞宗の沢木興道老師

<沢木興道老師の生涯>
三重県津市に生まれる。幼少に両親を失い、一家離散して沢木家の養子となるも、すこぶる悲惨の幼少時を送る。18歳で出家。日露戦争に二度従軍、重傷を受けた。
法隆寺(ほうりゅうじ)の佐伯定胤(さえき-じょういん)に唯識(ゆいしき)学を、また笛岡凌雲(ふえおか-りょううん)・丘宗潭(おか-そうたん)らに道元禅師(どうげんぜんじ)の宗風を学ぶ。
1935年に、大本山の總持寺(そうじじ)の役僧となり、駒澤大学特任教授も兼任して、学生の坐禅指導を行い、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。
生涯、結婚せず、大きな寺の住職にもならず、無所得(むしょとく:何もえることがない)の生涯を徹底的に貫き、道元(どうげん)の教えである只管打坐(しかん-たざ:ただ坐禅する)に全生命を燃焼した。
人よんで「宿なし興道」といい、その道場を「移動叢林(そうりん)」と称し、純粋高潔な道風は、多くのファンを産み、多くの人を徳化した。
『澤木興道全集』(全19巻)など多数の著書がある。

 

 

沢木興道老師は、「何にもならんもののために、ただ坐る」という、只管打坐(しかんたざ)を貫き、その一生を通じて、自ら実践して見せました。
現在、その思想、指導方法は、アメリカ各地に250以上もある曹洞禅センターにも受け継がれ、スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)などにも間接的に影響を与えています。

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沢木興道老師は、講話の名手でもありました。短い言葉の中に、鋭く深い教えを示した名言がたくさんあります。
ここでは、沢木老師の名言に、一番弟子であった内山興正老師が解説した本(『宿なし興道 法句参』大法輪閣)から、興道老師の教えをご紹介

①坐禅とは、自分が自分を自分すること

<法句(沢木老師の言葉)>
「屁一つだって、他人と貸し借りでけんやないか。人はみな『自己』を生きねばならない。お前とわしと、どちらが器量がいいか悪いか、頭がいいか悪いか――比べてみんかて、ええ」
「人間のエライもエラクナイも問題でないところに、しっかり坐るこっちゃ」

<参(内山老師の解説)>
沢木老師の初期の説法では、よく「坐禅とは自分が自分を自分することだ」とか、「坐禅は自己に親しむことである」とかいわれています。
つまり、ふだんわれわれは、いつでも他とのカネアイばかりを気にし、ただそのことだけに浮き身をやつしているわけですが、これら一切のことを放下して「自分ギリの自分」になって坐るのが坐禅というものです。

他人(ひと)を蹴落とそうが、他人(ひと)から蹴落とされようが、じつは見わたすかぎり「自分ギリの自分」として生きているのであって、決して自分でないものになってしまうことはないのですから、安心して「自己に帰っていい」のであり、これを実行するのが「諸縁を放捨し、万事を休息して坐る坐禅」です。

 

お釈迦様は「自己をよりどころとして世間を歩み、無一物(むいちもつ)であらゆるツナガリから解脱せよ」(スッタニパータ)といわれましたし、道元禅師は「仏道をならふといふは、自己をならふ也」(正法眼蔵(しょうぼうげんぞう))といわれました。
つまり他とのカネアイに引っ張りまわされず、真実の自己にオチツクこと――これが仏法本来の安心のキメ所であり、もっとも純粋な坐禅というものです。

 

坐禅しても、何にもならぬ-スミレはスミレの花が咲けばよし

<法句(沢木老師の言葉)>
「坐禅して何になるか?――ナンニモナラヌ。――このナンニモナラヌことが耳にタコができて、本当にナンニモナラヌことをタダするようにならねば、本当にナンニモナラヌ」
「みんな違った業(ごう、カルマ)をもっているのだが、みんなが同じく仏さんに引っぱられてゆくことが大切だ。
心身脱落(しんじんだつらく)とは我のツッパリを捨てて、仏の教えを信じ、仏さまに引っぱられてゆくことである」

<参(内山老師の解説)>
「坐禅してもナンニモナラヌ」ということは、沢木老師の一生いわれつづけたことでありました。
私は昭和16年に老師の弟子にしていただいたわけですが、そのまもなくのころ、老子に随侍(ずいじ)して歩いていたとき、「私はごらんの通り意気地(いくじ)なしですが、これから何十年でも老師の死なれるまで、老師に随侍して坐禅していれば、ちっとはマシな人間になれましょうか」とお聞きしました。
そしたら本師老師は即座に「いや、いくら坐禅しても、なんにもならぬ。わしだって坐禅したから、こんな人間になったのではない。もともとこんな人間なので、昔も今もちっとも変ってはいない」といわれました。

昨年(昭和40年)12月21日老師遷化(せんげ)以来、私も過去をふりかえって、坐禅して何かになったかを考えてみましたら、はじめに老師がいわれたように「本当になんにもなっていなかった」ことだけがよくわかりました。
私は依然として意気地なしであり、少しも老師みたいな人間にはなっていませんでしたから。
それで私は結論を下しました。「スミレはスミレの花が咲けばよし。バラはバラの花が咲けばよし。スミレがぜひともバラの花を咲かせねばならぬと思わなくてもいいんだ」と。

 

自分というものは、自分をもちこたえてゆくことはできない

<法句(沢木老師の言葉)>
「自分というものは、自分をもちこたえてゆくことはできない。
自分が自分を断念したとき、かえって宇宙と続きの自分のみとなる」

<参(内山老師の解説)>
われわれふつう日常生活で、しゃべろうと思うときに自由にしゃべっており、あちらへゆこうと思うとき、もはやそちらへ向かって歩いており、何か取ろうと思ったとき、もはや手がそれを握っており――その点あまりにも思いのまま自由自在に手足や舌が働いてくれるので、思いこそがこの肉体の主人公であり、思いこそが自分そのものだと思いこんでしまっております。
それでこの思いによってすべてをはからい、すべてを処理するつもりになってみると、どっこい、そうはゆかないので、思いは悩むことになります。

それで、どうせすべてのことは自分の思い通りになるものではないと、すべて放棄してみると、ああら有難や思っても思わなくても、重かった胃袋の食物はきれいに消化されており、眠っているときさえ一分間に幾つの割合で呼吸がつづけられていて、この自分は生きている。――さてこの自分は、いったい何なのか。――たしかに宇宙とつづきの自己なのだと思わないではいられません。

 

自分を投げ出してみる

<法句(沢木老師の言葉)>
「人間、金をもっていなけりゃ生きてゆかれんような甲斐性なしじゃ困るね」

<参(内山老師の解説)>
だいたいわれわれ自分のことを大事に思って、自分、自分と、自分のことばかり考えて生きている人は、どんなに結構な自分で、どんなに満足して生きているかと思うと、さにあらず、かえってそういう人にかぎって、みんな思うようにゆかないと、悩みに悩んでいるから、これまた奇妙なものです。
その点、自分をいとしむ心に比例して、『世の中は自分の思うようにならぬ』という面が大きく伸し上がり、追ってきて、かえって不安となり悩みも大きくなってくるのでしょう。

 

それに反し、世の中はどうせ自分のためにできているのじゃないと、自分を投げ出してみると、けっきょく托鉢と同じで、自分に授かっただけが授かったのであって、有難いと思わずにはいられない面も出てくるものですよ。

 

坐禅は宇宙一杯とスイッチのつく法

<法句(沢木老師の言葉)>
「坐禅は宇宙一杯とスイッチのつく法である。
宇宙一杯のものを即今、即今、一切に尽くして行じてゆくことが三昧である」
「さとりとはけっして面倒なところへゆくことではない。アタリマエになることである」

<参(内山老師の解説)>
沢木老師は「宇宙とぶっつづきの自己」とか「宇宙一杯の自己」とかと、よくいわれました。この言葉を聞いて、坐禅することによってムクムクッと自分の身心が大きくなって宇宙大になることかと思う人があるかもしれませんが、決してそういうことではありません。
坐禅しながら、もしそのような気分になったとしたら、それは妄想であり、魔境です。仏教の話は決して空間的大きさの話ではありません。空間的大小の比較をいうかぎり、どこまでも話は中途半端でしかないからです。
そうではなく、小さな自分、自分という自分中心の思いを投げ出すことが、宇宙とぶっつづきの生命を今、ここで生きるということです。

 

沢木興道老師の坐禅とは

<法句(沢木老師の言葉)>
第一、仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を教えるものである。
第二、坐禅は、透明なる自己になることである。
第三、坐禅は、自分が自分を自分することである。
第四、坐禅は、宇宙とぶっつづきの自己になることである。
第五、坐禅してもなんにもならぬ。

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前回開催時

褒めて伸ばすか、叱って鍛えるか

人を育てるコツとして「七割褒めて、三割叱る」ことが大事であると言われます。最近は「褒めて伸ばす」ことを重視する傾向が強くなり、「叱ることの三倍褒めろ」とか「褒めるが9割、叱るは1割」という標語が使われることもあるようです。

[pdf-embedder url=”https://runrig-marketing.jp/syanai/wp-content/uploads/2017/08/e919f6a4da221015357d64ec3a4254e9.pdf” title=”衆知2017.9-10_南泉と麻谷(A4)”]

禅の伝統的な教育法は「叱って鍛える」というものです。
誰でも褒められたら喜び、叱られたら落ち込むのは当然の人情ですが、他人の評価にとらわれすぎると、自由な心の動きが失われてしまいます。かといって褒められても叱られてもどこ吹く風と受け流せばいいというわけではありません。

他人の評価を素直に受け止めながらも自分の進む道については自己責任で決めていく姿勢も大切。他人の評価や世間の声が常に正しいとは限りません。

禅問答の世界では問いに対する正解は1つと限らず
答えそのものよりも答えた人の境地が大切。答えは立派であったとしても本人の心の中から出たものでなければそれは正解とは言い難い。

この人の為に!良かれと思ってやったことが実際のところは本人にはあまり響いていないというのは凄く感じる事が多々あり、でも叱るというのもどう叱ればいいのか?というのも言葉を選びながらというのも感じます。

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