今回は衆知の笠倉先生の記事から
碧巌録から百丈和尚の話
百丈懐海(ひゃくじょう・えかい。七四九~八一四)禅師は、唐の時代の福建省長楽の生まれ、二〇歳で西山慧照和尚のもとで出家し、南嶽の法朝律師から具足戒を受け、広く仏教を学び、馬祖大師の法を嗣いだ。
そして江西省の大雄山(だいゆうざん。百丈山)に大智寿聖寺(だいちじゅしょうじ。百丈寺)を建立して禅風を鼓吹し、い山霊祐(いさん・れいゆう。い:さんずいに為)禅師、黄檗希運(おうばく・きうん)禅師など多くの弟子を育てた。
禅の教えは自分の心を静め、自己に向き合う事で自己の本質に気づく。
その為に論理的に解けない質問をわざとして自己とは何か?という根本的な問題に目を向ける様にしているとの事。
つまり答えを用意し、答えを求める事ではなく
問い続ける事が重要と。いう内容なのですが面白いのは
参加者からの話で
毎年東大に何百と輩出している○○高校でノーベル賞受賞は1人もいない。
↓
頭が良い、頭の回転が速い人というのは早く答えを求め、出して動いていく。
そんな論理的な所をどんどん突き詰めていく方が多くて
頭の中ですぐに答えが出てしまって、答え通りにいかない場合は
自分よりも先に周りの動きが悪いから、理解していないから
という結論になってしまうのでは・・?
じっくりと物事を考え考えすぐに出ない答えであっても追求し続けていく、そんな探究心が禅を学ぶ土壌にあったのではないか。
であるならば、ただ単に座禅や書物を読むだけではなく
答えの無いものに対して物事を突き詰めて考えていく教育が
今の世に求められているのではないかとの事で
確かに!それが今必要になっている時期かもしれないと。
特に問うという事については
自分の様な影響を受けやすい人間の場合に
○○さんが素晴らしい!○○さんの様になりたい!というのがあった場合に
その人のいう事が全てと思ってしまう事で
いくらどんなに学んでも
問う事が無いとコピー人間の様な、、想定外ケースの場合に
自分で選択することなく書物やその人の思想にすがりたくなる
みたいな感じで。。
あれもいい、でもこれもいいとセミナー難民になっていたりとか、、
その問う所をやるか否かが
その人の本質の部分に関わってくるのであろうと。思います。
振り返ると高校生の頃
○○の家の錬成会で勉強しながら
生命の実相(特に7巻)を熟読して
「人生頑張らねば!背水の陣で生きねば!」と心にスイッチが入った所までは良かったのですが
時同じくして、何でヤオハンが潰れるのか?
和田先生が素晴らしいと思い込んでいたのに。。
という疑問が出て
ABSで学生スタッフしていた時も
経営者ライブで初めてお会いしたのが折口さん
実家の経営が大変な時に自衛隊学校入った時の話から
センターピン理論の話とか
これからの日本のあるべき姿の話とか
講義後も1人1人に握手して名刺交換して
感動的だったのが、、何故ああなるのか。。。
その後バイトしてたこちらでも(当時、エッヂだったかな?)
こんな事があって
人柄が素敵で、よくジェームズ・アレンとか稲盛さんの本とか貸してくれてた社長が何故逮捕になるのか?と
今でも疑問だらけといえばそうなんですが
若い頃に隆盛と没落を見させて頂いたおかげで
問う事の大切さが必要だとやっと感じる事が出来た気がします。