禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(26)開催しました。

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

あふれる情報の中で何が本当に大切なことか、本質を見抜く直観力が、今まで以上に必要な時代になっています。
不確定性を秘めた変化の激しい外部環境の中で、感性を磨いていくためには、まず内部環境である「心の平安」を取り戻し、感性を磨く工夫が重要です。
この講座では、2500年の歴史をもつ禅的瞑想法を誰でもできる「イス禅」としてお伝えします。

禅では「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏(ほとけ)なり」といいます。

誰もが本来、仏教と同じ美しい心、宝物のような心を持っているという教えです。

ただ、日々の忙しさやストレスでマイナス感情の意識が生まれ(煩悩)自分の宝物を忘れてしまっている。

これを禅の瞑想により心が「空(くう)」に近づく時間を持つ事で仏様(サムシンググレート)の世界と一体に近づく!
それを固く意識して行う事ではなく自然と1日10分イス禅をするだけでも誰もが持っている心の宝物が自然に輝きますという事で
難しく取り組む事なくイス禅をベースに開催しております。

 

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○形山(ぎょうざん)に隠された宝物:雲門(うんもん)の禅話 

■宇宙第一の宝物はどこにある?(1/2)

中国では、唐(618年~907年)の時代から五代十国の戦乱の時代(907年~960年)をへて宋(960年~1279年)の時代にかけて、禅宗が大変興隆し盛んでした。まさに中国における禅の黄金期といってもよいほど、すぐれた禅者が輩出し、有名な禅話(禅問答のエピソード)がたくさん生まれました。

その唐時代末から五代にかけて大活躍された一人が雲門禅師(うんもん-ぜんじ)です。雲門(864年生まれ- 949年没)は、僧侶になって仏教学を随分勉強し、厳しい戒律を守りましたが、大安心(だいあんじん)を得ることができませんでした。そのため、悟りへの志が深く生じ、当時、有名な睦州(ぼくしゅう)の禅道場に参じようと訪問します。

しかし、峻厳な睦州(ぼくしゅう)は、訪ねてきた雲門の顔をみて、わずかに一言聞いただけで門から締め出してしまいます。それが2日続き、3日目にやっと門内に入れてくれたと思ったら、いきなり睦州(ぼくしゅう)から胸ぐらをつかまれて、「さあ、(仏法にかなった一句を)言え言え」と迫られます。

仏教学は学んでいるものの禅は初心者の雲門がたじろいで答えられないでいると、睦州は雲門を門から推し出して「この役立たずめ」と悪口を浴びせかけ、重い山門を閉めようとしましたが、その際に雲門は門に足を挟まれて片足を折ってしまいます。しかし、その瞬間、忍痛三昧(にんつう-ざんまい)となり、痛みになりきった雲門は、図らずも最初の悟りを開いたと伝わっています。

のちに雲門は睦州(ぼくしゅう)の道場で修行を積み、さらに雪峰(せっぽう)の下で修行を続けて大成します。晩年の雲門は、雲門山の道場に1千人もの修行者が集まるほどの大禅者となり、のちに雲門宗といわれる禅の五大宗派の始祖となりました。

さて、その雲門(うんもん)がある日、ご自身が指導する禅道場で、修行者に向かって次のような説法をされました。

<原文>

乾坤(けんこん)の内、宇宙の間、中に一宝(いっぽう)有り、

形山(ぎょうざん)に秘在(ひざい)す。

 

灯篭(とうろう)を拈(ねん)じて仏殿裏に向かい、

三門をもって灯篭上(とうろうじょう)に来(きた)す

<現代語訳>

天地や宇宙という無限の空間と時間を貫いて、一つの宝物がある。

それは身体のなかに秘密におかれている。

 

(その一宝の働きとは)手提げアンドンをもって仏殿に行き、

大きな寺の門をぶら下げて、小さな手提げアンドンの上に載せてしまう。

(小さなちょうちんのなかに、寺の山門を入れてしまう。)

 

前半の部分は、私たちは誰もが天地宇宙の間に輝く素晴らしい仏心という宝物を持っているということを言っています。仏心とは、宇宙の根源的な生命力といってもよいでしょう。それが私たちの本質であり、禅では、それを仏性とか、本来の面目とか様々な符丁(ふちょう)を使って表します。ここでは、「一宝」と呼んでいます。

それを雲門が「一つの宝物」というのは、本来、私たちの心は素晴らしい輝きを持っているからです。禅の教えの大前提であり出発点は、「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏(ほとけ)なり」ということですが、これは、誰もが仏様と同じ心の性能を持っているということを表しています。

 

しかし、私たちは、怒りや貪(むさぼ)りなど煩悩(ぼんのう)によって、心の本質を見失って忘れているわけです。仏様の心が流れる水のように自由に流れて万物を潤すのに対して、同じ水でも凡夫の心は氷のように煩悩に凝り固まって、周りを寒くしてしまいます。

 

働きは大いに異なりますが、本質においては仏様の心も私たち凡夫の心も差がないというのが禅の考え方です。そこで、坐禅をしたり仏教の勉強をすることによって、しだいに心の氷が溶けて、本来の瑞々しさや輝きを取り戻していくことができると教えられています。

さて、ここまでは理論的でわかりやすいのですが、そのことを雲門は禅的に提唱して、

「手提げアンドンをもって仏殿に行き、大きな寺の門をぶら下げて、小さな手提げアンドンの上に乗せるようなものだ」といいます。

夜になるとあたりが暗くなりますから、手提げアンドン(ちょうちん)をぶら下げて、仏殿に行くことは常識で理解できる普通のことです。ところが、小さな手提げアンドンの上に寺の門を載せてしまう、あるいは、小さなアンドンのなかに大きな寺の山門を入れてしまうというのは、常識では理解できない話です。

このように常識やロジックでは理解できない話を意図的にぶつけて、悟りの目を開かせようというのが、禅の特徴と言って良いでしょう。

小さいものが大きなものの中に入るのは当然のことです。しかし、小さなものが大きなものよりも価値がないかといえば、決してそうは言えません。小さいものには小さいものなりの価値や役割があります。大きさの大小でモノそのものの価値は決められないのです。

寺の門とちょうちんとを比べれば、寺の門の方がお金もかかっていますし、貴重なものであることは確かでしょう。しかし、寺の門がちょうちんの代わりになることはできません。それぞれが他の代わりの聞かない絶対的な価値を持っていると禅では考えます。

ビジネスに置き換えれば、会社では肩書きが高いベテランの管理職が若い新入社員より偉いのは、常識的な普通のことです。しかし、持っている可能性から言えば、中高年の伸びしろよりも、若い新入社員の伸びしろの方がはるかに大きいでしょう。

孔子も『論語』の中で、「後生(こうせい)畏(おそ)るべし。いずくんぞ来者(らいしゃ)の今いまにしかざるを知しらんや。」と言っています。

これは、「若者は恐るべき存在であり、侮ってはいけない。どうして彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと言えるだろうか?」という意味です。中国最大の聖人であり、偉大な教育者であった孔子は、人間の大きな可能性を信じ、青年の成長を期待していました。

雲門(うんもん)の言葉は、心の自由な働きを禅的に表現したものですが、現代風に解釈すれば、固定観念にとらわれずに、多面的にものごとをみることを教えてくれていると理解したいものです。

■仏法の眼目を示す四句(2/2)

さて、この雲門の禅問答は、禅の古典である『碧巌録』に採用されていますが、『碧巌録』の著者である円悟(えんご)が本則(禅問答そのもの)の前に「垂示(すいじ)」という序論的な批評を書いています。そこに禅仏教の要領を端的に唱えた四句(4つの言葉)がありますので、それをご紹介いたしましょう。

<原文>

無師(むし)の智(ち)をもって、

無作(むさ)の妙用(みょうゆう)を発し、

無縁(むえん)の慈悲(じひ)をもって、

不請(ふしょう)の勝友(しょうゆう)となる

<現代語訳>

自分に生まれながらに備わっている智慧をもって、

自然に巧まずして、すぐれた働きがでてくる。

縁もゆかりもない人々を救わんとする大慈悲心をもって、

頼まれなくても進んで苦しんでいる人を助ける存在となる。

 

「無師(むし)の智(ち)」とは、私たちが生まれながらにもっている仏心から出てくる深い智慧のことです。禅では、「悟り」によって開かれる心の目という意味があります。心を磨くための方法については、先達の指導を受けた方がよいのですが、最後は自分で悟る(気づきを得る)必要があります。

このような「無師(むし)の智(ち)」を磨くために坐禅などの瞑想が必要であるとされています。仏教学などの知識は、理論的なものでロジックが関与する「左脳」の働きが種となります。それに対して、坐禅などの瞑想は、「右脳」を活性化して、直感的な知や感受性を磨くことになります。美しい自然や芸術を観賞するときにも「右脳」が活性化するようですが、瞑想やただぼんやりするだけでも効果があるようです。

「無師(むし)の智(ち)」は、人間が生まれながらにもっている感受性であり、良心の働きです。煩悩は、計算による部分があり、多分に後天的に身につけていくものです。とくに貪りの心、怒りの心は、煩悩の最たるものですが、瞑想によって「無師(むし)の智(ち)」が活性化すると、不思議と心が広やかになって、煩悩の程度が減じていきます。そこに、坐禅の大きな功徳があると言えるでしょう。

さて、「無作(むさ)の妙用(みょうゆう)」とは、計算づくでない自然な働きのことをいいます。赤ちゃんがお腹がすけば泣き、気分が良ければニコニコ笑い、眠たければどこでも眠るのは、「無作(むさ)の妙用(みょうゆう)」そのものです。そのような赤ちゃんの無心の笑顔を見れば、誰もが心を癒されるでしょう。

赤ちゃんのときは誰もができたことが、大人になるにつれて計算高くなり、出来にくくなります。無意識にやっているつもりでも、じつは計算が背後にある不自然な行動であるケースもあります。それでも、その行いが世のため人のためになれば良いのですが、自分の利益や都合しか考えないような行動を無神経にされると、まわりの者は大迷惑を被ります。

計算づくでない自然な働きといっても、あくまでも良い方向の働きであることは押さえておきたいものです。禅の修行によって心が熟してくると、「無作(むさ)の妙用(みょうゆう)」ができるようになるとされます。

次に「無縁(むえん)の慈悲(じひ)」という言葉が出てきますが、これは仏教で考える最高の優しさのことで、なんの関わり合いもない人々に対して示す優しい心のことです。

その辺を円覚寺の元管長の朝比奈宗源(あさひな-そうげん)老師は、次のように解説されています。

「盛んなるものは必ず衰える。生まれたものは死ななければならない。野辺の草は、秋の霜を迎えてかれていくという。人間の運命もそうです。

ですから、本当に深い愛情というものは、誰も彼も淋しい人、気の毒な人と言うっ深い認識に立って、そこからにみんなそれぞれの持つ運命に対して同情を持ち、愛情を持って、それらを出来るだけいいように導き、少しでも深い信心に導き、そして生活の基礎をより確実にして、どんな運命にあってもふらふらしないようにという所に力を入れてあげることが、無縁の大慈悲です。

仏様はそれであります。(中略)何ら人に頼まれない、一銭のお礼ももらわない、頼む人も頼まれる人も、同じにどうか幸せであって欲しい、一切衆生(いっさい-しゅじょう)のために祈るという、これが無縁の慈悲です。」

(朝比奈宗源著『碧巌録提唱』P.502)

ご縁のある方、家族や友人やお世話になった方や好きな人に対して、親切に優しくすることは、ある意味、当然のことです。とは言っても、「当たり前のことを当たり前にできれば達人である」という言葉があるとおり、ご縁のある方に親切にすることも簡単にできるわけではありません。関係が近いだけに、ついついわがままが出やすいのが、私たち凡夫の悲しさでしょう。

そのため、『論語』など儒教の教えでは、自分を律するとともに、まずは家族に親切にすること、つぎにそれを友人や直接関係のある人に広げていくという考え方をとります。その方が現実的かもしれません。

しかし、禅では、仏様の理想の境地として、また修行者の目指すべき目標として「無縁(むえん)の慈悲(じひ)」を掲げているのです。

最後に、「不請(ふしょう)の勝友(しょうゆう)となる」とありますが、これは「無縁(むえん)の慈悲(じひ)」を頼まれなくても、自然と相手に施していくことです。これについて、朝比奈宗源老師は以下のように解説されています。

「どうぞ私と友達になってくださいと言われないでも、あの人はいま悩んでいる、少しでも力をつけてあげたい、慰めてあげたいとこちらから進んでその人を助けてあげるのが「不請(ふしょう)」です。請われないのに行ってあげるのです。請とは頼むこと、頼まれないでも行って親切を尽くしてあげる、それが不請(ふしょう)の勝友(しょうゆう)です。」

(朝比奈宗源著『碧巌録提唱』P.504)

無師(むし)の智(ち)をもって、

無作(むさ)の妙用(みょうゆう)を発し、

無縁(むえん)の慈悲(じひ)をもって、

不請(ふしょう)の勝友(しょうゆう)となる

この四句に大乗仏教の理想が集約されているとも言えるでしょう。

このような境地を目指して修行するのが禅仏教なのだと思います。


<ここがポイント>

1.天地宇宙を貫くの最高の宝物が私たちの心である

2.大小、高下でモノの価値は決まらない、多面的に考える

3.無縁(むえん)の慈悲(じひ)という最高の優しさが禅の理想である

<ご紹介:講師の本-1>

「ビジネス人生に活かす『論語』の知恵」(2015年7月)

(笠倉健司著、SMBCコンサルティング、500円+消費税)

 

<ご紹介:講師の本-2>

「ビジネス禅-公認会計士が書いた禅の本」(2011年10月)

(笠倉健司著、税務経理協会刊、1,500円+消費税)

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