本日は、久しぶりに知覧の話をお伺いする事が出来ました。
知覧と言えば、北島先生!
(知覧特攻隊の護衛をされていた方です)
昨年お会いした時に90歳!にも関わらず、背筋が伸び、しっかりと聞き取れるお声で、殆ど年齢を感じさせない姿もさりながら
戦時中に特攻隊のお話を身近で見られてきた方から直接お話をお伺いする貴重な機会でした。
当時の北島さん

当時を語って頂きました。





B―24を撃墜させるために、私は飛び立ちました。そして、私と仲間たちは、いくらかの戦闘機を撃墜させました。その時に一緒に飛び立った同期の仲間がいました。その仲間の飛行機が着陸する寸前、無防備になっているところを、敵のP38戦闘機に狙われ、
私の目の前で落とされてしまいました。
仲間は墜落する飛行機と共に、この世を去りました。私は、護衛できませんでした。
仲間を殺してしまいました。
戦争が終わり、幸か不幸か私は生き残りました。
いくらか経った後、家内を連れて、戦死した同期の仲間の実家を訪ね、九州へ行きました。「よく来てくれた・・・
私の一番大事な息子を殺しておいて、 お前さんが、こうしてのこのこと帰ってきて、 何しに来たんだ! 言ってみろ!」
話すたびに胸が強烈に痛くなる出来事とおっしゃって頂きましたが、
「彼らが生きていれば、今の日本はもっと良くなっていた。心底そう思っている」
自責の念から、会社を定年するまで体験は誰にも語ってこなかったという事ですが、現在は後世に対し、若い世代の方に経験談を伝えていく事をされています。
もしも、自分が余命1日だとしたなら、、
自分がやってきたことを後悔したり、懐かしがったり、家族にメッセージを残したり、姉は姪っこは、弟はどうなるのか?等々考えながらだと思うのですが、そういう時に感謝の念を物凄く持てるのではないかと感じます。それが知覧に行くと17,18~30代前半の方々の遺書にその熱いメッセージを感じながら涙流す事もあり。
明日が約束され、モノは溢れ、悩みといったって生命の存続からほど遠い所にいる自分としては満たされた生活の中で、当時の彼ら程の決意などできるのだろうかと?思いながら森信三先生の「人生二度無し」の言葉を痛烈に感じる事が出来るかもしれません。
また、現代においてそこまでの覚悟を持って生活をする必要もなく、そんなのがなくても幸せは手に入るのかもしれません
が
そうであるならば、何故に満たされる世の中になって、自殺が多くなり、心が病む人が多くなるのか?
北島さんの「彼らが生きていれば、今の日本はもっと良くなっていた。心底そう思っている」の言葉が単なる教育制度ではなく人として、利他の精神を持ち家族を思い、それが広がって地域、社会、国という形で場所や環境は違えど思う心は利他の精神をみんなが持っていたのかなと思われ、だからそういう言葉が北島さんから出てくるのかなと思います。
鹿児島の知覧飛行場から、重たい250kg爆弾を腹にくくりつけた飛行機が、沖縄の沖合に群がる米艦隊に向かって、何度も何度も特攻攻撃を行った。(ただし、片道の燃料しか積んで特攻に行っていたというのは嘘でそんな非道な事が出来る整備士はいなかったとも語っておられました。)
北島さん自身も追撃され、海の上に4時間彷徨って助けられた経験があり、その時は
何度も眠くなるのと闘いながら、眠くなる度に北島さんのお母さんが呼びかけている声が聞こえて、
目を覚まして⇒眠くなり⇒目を覚ましての中で助けられたという事です。
そんな経験をされている北島さんですが、
非常に腰が低く、お人柄が伝わってくる方でした。
「夢を持って頑張ろう!自分は今年出来ればオスプレイを運転したい!」という事もおっしゃっていて、自分よりも60歳近く年上の方がまだまだ現役で仕事も夢も持って頑張っている事に大変尊敬の念を感じる事が出来ました。
また、北島さんは
相花信夫少尉の遺書を受け取り、継母に対して宛てた遺書の話をお伺いする中で、涙なしには語れない素晴らしい話であると。
義理のお母さんに対して、今まで「お母さん」と呼べなかったが、人生の最期に遺書で充てて書いた内容の最期に義理のお母さんに対して「お母さん」と3度書かれており、それを北島さんが実際に義理のお母さんにお渡しした際に、涙が止まらなかったとの事です。

相花信夫 少尉
陸軍特攻第77振武隊
昭和20年5月4日 特攻戦死 18歳
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
「知覧特別攻撃隊」(松永薫編 ジャプラン一九八九年刊)
6月26日(木)~7月6日(日)
俳優座劇場にて
大東亜戦争末期、昭和20年春。陸軍最大の特攻機地となった知覧。
全国各地から召集された特攻隊員たちは、まだあどけない表情の残る10代から20代前半の若者達であった。
その特攻隊員達の母代わりとして彼らを手厚くもてなし、無限の情をそそいだのが富屋食堂の女将、鳥濱トメさんの物語です。

