昇地三郎先生命日にて

11月27日は昇地三郎先生命日

亡くなられてから早5年になる11月27日。時間の経過と共に記憶の中から段々と忘れ去られる訳ですが、親戚の一人として、素晴らしい教育者として、何より生き様を教えてもらえた恩としてプラスになる事があるのであれば伝え続けて行ければと祝島で心に決めてから早5年経過した感じです。

凄いかただ、すばらしい人だと言われる事は多々ありましたが、
・何が凄かったのか?
・何が素晴らしかったのか?
を少し深く知る事によって自分にも何か活かせる事が無いか?そんな視点で人を知る事が全然違う視点から魅力を感じる事が出来、身近に入れた人間として少しでも発信出来る事でのプラスになればという想いで、長生き、障害児教育といろいろありますが自分の中では「自分と子供の可能性にワクワクしていた」常に可能性を追い求めていた。そんな生きる姿勢が一番の学びの大きさだったのではないかと思っています。

今回もあまり表に出てない情報にて!!

元々は、曾お爺さんにあたる山本長八さんが大変厳格な方で旭川27連隊の中隊長で二〇三高地を攻めるとき、決死隊を募って先頭に立って登っていく際、何人もの死体の山が出来ている中、部下は「ここで死にます」と言って本当に死んでいった。そんな心の傷があった様で、北海道から祝島(山口県)に移り、そこで次男坊にあたる昇地先生誕生。

旧制広島中(現国泰寺高)の受験に失敗し、旧制岩国中(現岩国高)に入学、その後広島師範学校(現広島大教育学部)に入学で写真は広島師範学校時代(教員養成のための旧制の学校):右側


師範学校時代にペスタロッチの肖像画が掲げられて「全て人のためにし、わがためにせざりき」を毎日見ていたという事で、ここでかなり影響を受ける経験があったとのこと。 ペスタロッチの教育目的は、道徳的状態の人間こそが本来的な人間であると考え社会的状態の人間という現世の人間を、道徳的状態の人間にするのが教育であって、つまりその教育が「人間教育」

初めて貧民あるいは民衆の子どもを教育の対象として位置付けた方でもあるみたいです。

19歳で尾道の原田尋常高等小へ赴任(まだ大正時代)

鉛筆や消しゴムを持っていない子がたくさんいた。修学旅行に4人が「行かれん」と言う。「(旅費は)私が出す」と言ったら、次は「げたがない」と。げたを買いました。
「われこそは日本のペスタロッチーになる」と宿直室で遅くまでガリ版を切って、教材や学力の遅れている子どもの学習帳を作った。女学校へ進む子が4人いて補習もした。教えれば教えるほど学力がついていくのは、うれしかった。

そして、お見合い結婚

見合いは30分、妻に言った言葉は「戦いはこれからだ」結婚とは、他人だった男女が敵として相対しながら、新しい人生を築くことだと思ったとのこと。

その後長男の有道さん誕生、

「天下に道有らしめん」という願いを込めて「有道」と名付け

奥様のお父様が亡くなられて、家業を継ぎ、指定相続人となり山本から昇地に変更、当時は昼間は学校で授業、夜は家業の仕事をされていたとの事でした。

脳性小児麻痺の有道さんに歩行訓練から始めて、片手で有道の腰を抱いて、もう片方の手を足に添えて、足に力を入れさせることから始めました。

立つようになったら、次は歩く訓練。手を引いて歩かせたり手を放したり。川土手の階段を上がらせた。心を鬼にして訓練一点張りの父親。6、7歳の時、まだ歩けなくて2年連続で就学猶予に。

なんとか歩けるようになって学校に入学したものの、倒れている有道さんに児童数人が砂を掛けている。中学でもいじめられ2階から押されて転落して前歯を8本折る経験や鉛筆で顔を刺されたり、病むに病まれず義務教育だから「行方不明」という手続きを取って中途退学させたとの事でした。

また、次男の照彦さんも誕生した後同じく脳性小児麻痺に掛かり
希望と絶望が毎日頭の中をよぎる生活で
子供さんの話になるときだけは積極的に話したがらなかった思い出があります。

小さなシイの実は落ち葉に埋もれて、人に踏まれているけれど、水と太陽の光を与えれば、必ず芽を出してくる。
ないがしろにされている子どもも温かい愛情で個性に合った教育をするなら、社会に役立つ人に育つ。そんな願いを込めて、奥様が「しいのみ学園」と名付けました。

それまでみんな学校に行ったことがないから手足が不自由であればあるほど、体を動かして声を出さなければならない。刺激を与えて反応させることが大切と。その1つとして「電車ごっこ」

運動場で子どもたちに縄を持たせたら、輪にして電車ごっこを始めた。線路を描いて、「ふくおか」とか行き先を書いて駅を設けると、駅員のように言葉を発したり、駅名を覚えたりするようになりました。
「電車」の中に自由に歩けない女の子がいて、みんな最初はゆっくり歩くけど、だんだん夢中になって走りだす。すると女の子も輪の中で、他の子に付いて行ったとのことで、一人ではできないことが、みんなで遊びながらやると、いつの間にかできるようになる。

子どもの自発的な活動に方向性を与えれば、教育というものになることが分かってきました!とそんな日常の中での体験が基になって教育を考えて活かすという流れになった様です。

子どもたちが教えてくれたのは、

「教育とは情意(感情と意思)を安定させること」

感情を揺れ動かす為に、例えば

・時間割をなくしその日の天気と園児の様子で決める。
・教室での授業を止めるときもあり、運動場で教えて、教室は休息の場にした。
そうすると、園児は運動場に大きな字を書いて学ぶのを自発的に行ってくれた。
そして大切なのは決して叱らず、笑顔でいること。

本人自身は笑顔を絶やさず、優しい人で難しい話をする人ではなかったのですが、きっと長生きや教育手法やメディアの露出以上に、こんなストーリーがあってその人の生き様が出来た。その生き方の部分の方が知る、学ぶ事として大切なのではないかと思います。

その後90歳超えてから世界一周を毎年行うのですが、

体力なんて考えていたら世界旅行なんかできんよ。「途中で死んだら海の中へ投げときゃええ」と

さらっと笑いながらそんな話をする方で(笑)、ステーキは食べるし、ファミコンに挑戦するし、講演会でパワポは使うしといった好奇心旺盛な所は生涯持ち続けていて、それもただプラス思考という訳ではなくて、背景の部分では、ご自身のいろんな体験を基に自分が楽しんで、活動する事が人の為になるというのを姿勢で示し続けた方でした。

人生哲学の観点からすれば「人生は自分自身との戦い」。戦う相手は自分。誰しも、一生懸命やろうとする心と、怠け心をもっています。生涯現役と厳めしい顔をするのでなく、生涯現役を楽しんでいるのです。百まで生きて、元気に仕事をする。そのためには自立です。自分の人生を顧みますと「禍を転じて福と為す」の言葉に集約されるように思います。それに立ち向かっていくことを、私は各地で話したい。