日本の遷都、5平安京時代

長岡京から平安京に移る延暦ー3年 (794 年), 種武天皇は諸国の神々の弊帛を奉り , 遷都と撮東経路の成功を祈願している。 新し い都の造営と東北地方の経営とは, 種武天皇 の二大政策だったわけで, 後者のためには先 の征討副使と して東北経営にあたらせていた 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命している〟 また造都を推進する役所造宮城には, 約ー60 人もの大人員を配し, その長官 (造営大夫) には藤原小黒麻呂, りづいて和気清麻呂を配 している。 そしてその労働力 く造官役夫) と して諸国から公民を徴発するが, 役夫を出し た国に対しては租を免じるとともに, 出挙 (春に貸しだし, 秋の収穫後熟ー子をつけて返 さずという雑税の一種, 利率は約5割) の利 率を引きさげ, 役夫をださない国々とのパラ ンスをとった。

このよ うにして新都 (平安京) はできた が, また遷都反対派は根強く残っており, 大 同元年 (806年) 垣武天皇が死ぬと, 新帝 (平 城天皇) に, わが国では前天皇の忌明には, 新宮を建てるのが例になっている, と遷都を すずめる者があった。 これは容れられなかっ た。 しかし平城天皇の妃の生母藤原薬子は, 天皇が病弱のため退位すると, 勢力が失墜す るのを恐れ, 兄仲成らとはかって平城上皇を 平城京に移し, その重誰をはかって挙兵した が債圧されて自殺した。 これを薬子の乱とい う〟

このよ うに大和平城京から山城への遷都 は始めは波乱含みであったが, 以降建久2年 (ーー92年) 源頼朝が鎌倉幕府を開く までの約 400年間日本の政治をと りしきる “都” と なった。

なお, “都” を政治ではなくて天皇 の居所と解釈ずると, 明治2年 (ー869年) の 東京遷都ま で, 平安京 (京都) はー000年の都 であったということになる。 平安京は東西約4.6キロメ ー トル, 南北約 5ー3キロメー トルの, 南北に細長い長方形で, その大きさは平城京とほぼ同 じで, 京城の北 部中央に宮城を設け, その中央から南に走る朱雀大路によって右京と左京とに分けられ平 城京同様条坊制がしかれていたが, 右京は低 温地が多く , 去る者はあっても来る者はない 有様で, 都の重心は次第に左京に傾いてゆ き, さらに鴨川を束に渡って現在のよ うに なっていった。

人口は9世紀段階でー0~ー5万 人であったろうと考えられている。 平安京では仏教の影響を断った律令政治が 広く行われたが, 荘園制が進行するに伴い, 官人と しての藤原氏の勢力が段々と強ま り, やがて摂政 ・ 関白の地位を独占 し政治は藤原 氏に握られるようになる。

これを摂関政治と いう。 しかし=世紀末になると, 白河上皇が 政治の実権を院に移したことから藤原氏の力 は次第に劣え, いわゆる白河・鳥羽・後白河 上皇による院政政治が続くが, この間おこっ た保元の乱 (1156年), 平治の乱 (1159年) を 経て, 政治の実権は武家の棟梁である平清盛 に移ってゆく。 清盛の祖父は北面の武士と して白河上皇に っかえ, 僧兵の強訴を防ぎ, 九州の賊を討つ など軍功があり, 父忠盛は鳥羽法皇につか え, 瀬戸内 ・ 九州に載扈していた海賊討伐に 功があった。 清盛は実父は白河上皇との説も あるが, 保元 ・平治の乱で力を伸ばし, っい には従一位太政大臣の地位にまで登り, その ~門には公卿 (3位以上の責族) 16人, 段上 人 (5位以上の素族) 30人, 知行国は日本全 土の半分に近い加国あま り, 荘園は500ヵ所 に及んだといわれている】 また清盛は娘徳子 を高倉天皇の女御とし, その皇子は治承4年 (1180年) に即位して, 第8ー代安徳天皇と なった。 この頃清盛と法王および家衆との関係は次 第に悪化, 同年5月には平家に対ずる最初の 武力による反抗運動がおきた。 源頼政 ・ 以仁 王との宇治挙兵である。

清盛は突如安徳天皇 を奉じて福原に移った。 福原とは今の神戸で 平氏の別荘があったところである。 旧勢力を 断って新しい政治をしょ う という狙いだったろうが, 土地が狭少で造営が思うにまかせぬ うえ, 京都にいる公家や僧侶寺社の反発をう けて, その年のうちに再び京都にひきかえし た。 なおこの福原の舎殿は平家が都落ちをし て西に走る際火をかけて焼払ってしまった。 このよ うに平氏は武家として出発しなが ら, 無限に貴族化することでその勢力を伸ば していった。 しかしその事は逆に武家と して は弱体することで, やがて源頼朝を棟梁と ずる武家勢力におされて亡んでいった。武家政権でありながら, そのまま旧政権の 所在地である京都に優をすえ, 無限にそれに 近づく ことで結局は去勢されて亡んでいった 平家の姿をまのあたりに見た源頼朝は, 自分 の開いた幕府を都から遠く離れた鎌倉の地に おいた。

ここは関東武士発祥の地にあり, 旧 勢力に毒される恐れの最も少ない土地であっ た。 鎌倉は海にひらかれた港湾都市でもあり, ここから奥州や北九州, さらに中国まで船で 往来ずることが出来た。 そのうえ背後は東・ 北 ・ 西の三方を丘陵で囲まれており, それを こえて中に入り込む道は尾根を切り開いた “切通し” を通らればならぬよ う設計されて いた。 “切通し” は鎌倉七口といって, 西か ら極楽寺坂, 大仏坂, 化粧坂, 亀谷坂, 巨福 呂坂, 朝比奈坂, 名越坂の七つあり, それら をつなぐ尾根は, 人工的に切り落した崖と なっていて, その内部は一個の巨大な城塞と なっていた。 この中幕府の政庁と町屋があっ たのだが, 政庁は海岸から裏まった谷戸に設 けられ, 町屋は海に近い比較的広い地域にっ く られていた。 人口を測る史料は皆無に近い が, 建長4年 (ー252年) に幕府が行った民家 の酒壺の詞査からー 約ー万戸( らいの戸数が あったろう との推定がある。 この時代の一戸 の推定人口を示ず数字もないが, 江戸時代の 平均一戸約5人よ り多いとすると, 5~ー0万 の人口はあったろうと考えられる。 ともあれ 前代の平安京 ・平城京にく らべると著しく狭 い市城になるので, かなりの過密都市であっ たろうことは疑いない。

ここで御成敗式自 (貞永式目) が制定さ れ, 律令による政治とは異った武家の政治が 行われた。 未曽有の困難といわれた元冠は幸 に切りぬけることができた。 その愚鸞をめ ぐって武将たちの不構をまわき, 元弘3年(ー333年) 新田義貞軍に攻められ, 執権高時 以下自殺して鎌倉政権は亡んだ。 北条氏滅亡後政権の主導権をめぐって争い がおき, 一時新田義貞と組んだ後醍醐天皇が 政権を握ったかにみえたが (建武中興), や がて足利尊氏におされ南北朝分裂ののち, 実 権は尊氏の手に握られた。 延元元年 (ー336 年) 尊氏は京都に幕府を開き, 建武式目を定 め, 同3年北朝から征夷大将軍に任ぜられた。 これから坊代将軍足弔ー義昭が織田信長のため に京都から追放された天正ー5年 (ー573年) ま での約2仙年を室町時代と呼ぶ。 室町時代, または室町幕府という呼び名は, 3代将軍足 利義満が, その邸宅を京都北小路, 室町に営 んだことから出た言葉である。

武家による政権の所在地が, 鎌倉から京都 に移ったわけで, 武家政権の遷都であるが, では何故北条氏から足甲ー氏に政権が移った場 合, その政庁の所在地を鎌倉から京都へと大 きく移動させたのであろうか。 その答は簡単 で将軍家北条氏は亡びたとはいえ, 関東には まだ北条氏の勢力が強く残っており, 足利氏 による新しい政治のためには, それからのフ リー 〝ハンドを得るためには遠く離れ, 天皇 の居所であり, また日本の最大の 手工業 都市であった京都が適正だったからである。