日本の遷都、4長岡京時代

第50代垣武天皇は天応元年 (78ー年) 4月 に即位するが, この年は辛酉の年にあたり陰 陽道にいう革命の年でもあった” 天皇は平城 京初年の間に強大になり, 政治そのものまで左右するよ うになっていた寺院勢力をふりき り, 人心を~新して新しい政治を行い律令体 制を建て直そうと考えた。

そのためには都を 替えるのが一番良いと考え, これまで宮都の あった大和の地を捨てて, 平城京よ り遠く離 れた山城国乙訓郡長岡の地を選んだ。 これを 長岡京という

長岡京は長い間平安京ができ るまでの臨時の都と考えられていたが, 調査 が進むにしたがって, 条坊制に基づく計画さ れた都市で, 仮の都ではなく て本格的な都市 づく りが行われ, 中心部分の造営はほとんど 終っていたことが明らかになってきた。 まず 立地的な条件から見ると, 平城京が人口10~ 20万という人口を賄うには, 大賽の物資輸送 手段である水遣の便を欠いていたのに反し, 長岡京は桂川 ・ 鴨川 ・ 宇治川に接し, 膨大な 消費を賄う条件を備えていた。

工事は順調に 進んでいたが, 造営長官である藤原種継が反 対派に暗殺され, その容疑者として皇太子早 良親王が捕えられたが, 親王はそれを冤罪だ と して憤死する事件がおきた~ そのため事の 真相は判らずに終ったが, 遷都というのは, それほど利害関係が複雑にからむ問題だとい う ことを, はしなく もこの事件は露呈するこ ととなった〟 たまたまこのころ天皇の身辺に 度々不吉な事がおころが, それは早良親王の 怨霊だという説が流布し, ためにせっかくの 長岡京を捨てて, 桂川を渡った北東の位置を えらんで平安京を造ることになったといわれ る。