日本の遷都、3平城京時代

se3 - 日本の遷都、3平城京時代

薦原京において, 天皇制官人国家の体調ーは 急速に発展をとげ, やがて狭い藤原京では政 治を賄いきれなくなった。 そのため新たに造 営されたのが平城京である。

藤原京は奈良盆地の一番南端に営まれてい たが, 平城京は北端に営された。 それまでの 政治の中心地であった盆地南端部から北端部 に移ったことは, この地に残っている氏姓制的豪族体制をよ り完全にふり切って, 天皇制 官人体制を確立ずるという狙いもあったろう が, 基本的には狭すぎる藤原京を, よ り適し た盆地北端部に移しかえたと考えてよいだろ う。 その証拠として, さしあたり次の二っの ことがあげられる。 その一つは, 奈良盆地に は, 盆地東端山際にそって走る “上ッ道” と, それとほぼ並行して南北に走る “中ッ 道” と “下ッ道” との三本の道がある〟 藤原 京はその “中ツ道” と “下ッ道” にはさまれ る形で造られているが, 平城京は “下ッ道” を新京の朱雀大路として, その西側に右京を つく っている。 っま り東西は藤原京の約二倍 に設計されているわけである。

南北も藤原京 よ り長く , また左京の東側に外京も造られて いるので, 面積は約三倍, そこに住んでいた 人は昭和初期別万人との説がだされ, 以降そ れが定説になっているが実際はその半分く ら いであろうと推定されている。 また右京と左 京に各々東市と西市とが設けられ, 毎年前半 と後半とに分けて交互に市が闇かれ, 住民の 需要を満たすよ うになっていた。 その第二 は, 藤原京時代弟盤代文武天皇のもとで大宝- 律令を撰集した藤原不比等が平城京に移って さらにそれを撃正して養老律令を編集, ここ に以降の日本政治を規定ずる律令政治の基本 法が完成していることである。 この平城京は和銅3年から延暦 3年まで約74年間続く , わが国最初 の長期にわたる都であり, この間律令国家体 制が整う。

また律令官人としての藤原氏と, 鎮護国家仏教と しての仏教の拾頭で特徴づけ られている〝 まず薦原氏は鎌足の子不比等の 代になっているが, 彼は大宝律令, つづいて 養老律令と, 律令国家の基本法の編さんに抜 群の力を示し, 律令官人の ト ップの地位を占 め, さらにその娘宮子を第42代文武天皇に, さらに光明子を第45代聖武天皇に納れるなど して, 皇室の外戚と して地位を高めた。 また 仏教もわが国に渡来以来, 国家鎮護を旗印に勢力を伸ばして来たが, と くに聖武天皇は仏 教に対する信仰が厚く, 諸国に国分寺, 奈良 に纏国分寺として東大寺を建立するなど, 仏 教を律令国家体御ーの精神的支柱としたため, その繁栄は目を見はるものがあった。

しかし平城京時代も平和 ・ 繁栄の一途をた どったわけではなく , 若干の波乱もみられた。 まず天平元年 (729年) には, 藤原氏が光明子 を皇后に立てよ うとするのを, 皇后は皇族に 限るというそれまでの慣習を盾に, 左大臣の 長屋王が反対するだろうとして, 王に謀反の 疑いがあるとして自殺させた, 長屋王の事件 がおきている。 しかしせっかく築いた藤原氏 の地位も, 当主および一族のつぎつぎの病死 によって力が劣え, かわって橘諸兄が拾頭し てくると, 一族の劣勢を盛りかえそう と, 天 平ー2年 (740年) 藤原広嗣が九州太宰府で約 ー万の兵を集めて乱をおこした〟 これを藤原 広嗣の乱というが, 広嗣は橘諸兄政権のみな らず諸兄を登用した聖武天皇までも批判の対 象にしていたので, 天皇はそれを恐れてせっ かくの平城京を捨てて, 恭仁=紫香楽・難波 と転々と遷都をく りかえし, 五年後にゃっと 平城京に帰っている。 聖武天皇が光明子との間にできた娘孝謙天 皇 (第46代) に譲位すると, その籠愛ずる僧 道鏡が政権を握り, やがて彼は宇佐八幡宮の 神職とはかり, 神託にことよせて皇位をねら う事件がおこった。 これは和気清麻呂らに よって阻止されるが, 平城京においては段々 と僧侶・寺院による政治関与が激しくなり, 正常な政治が困難となったので, やがて山城 の長岡 ・平安京への遷都問題が登場してくる。