日本の遷都、2藤原京時代

大化改新の立て役者中大兄皇子 (天智天 皇) と, 大海人皇子 (天武天皇) とは兄弟で あるが, 兄がどちらかといえば外向型政治家 であるのに対し, 弟は内政型政治家であった。 大海人皇子は第37代斉明天皇 (女帝で第35代 皇櫃天皇軍詐 ・ 中大兄皇子はその皇太子) が 百済救援のため九州に行幸している時も, 中 央にあって内政を担当, その声望は高かった。 百済救援が失敗, 中大兄皇子が都を大津に移 し即位して天智天皇となるとその皇太子とな るが, 天皇との仲は円滑にゆかず, やがて出 家して吉野に退去した。

やがて壬申の乱がお こ り, 近江の大友皇子軍に勝って飛鳥浄御原 で即位した〟 第40代天武天皇である。 天皇は 浄御原律令の制定, 国史の選餐, 旗姓を改め て八色の姓を定め, また欝位60階の制定な ど, もっぱら皇室を中心と した律令体制堅め に力を入れた。 この方針はやがて天武天皇の皇后で, 天皇 死亡のあと皇位をついだ持統天皇 (第4ー代) にひきつがれ, わが国最初の皇都である “藤 原京” の建設へと発展した。 “藤原京” は大 和三山 (耳成山・天香具山・畝傍山) の間に ひろがる平地に中国の王都を模して造られた 皇都で (中国北魏の洛陽を模したとの説もあ り, また唐の長安を模したとの説もあるあ それまでの “飛ノ鳥宮” が, その西北部に発展した形でっく られており, 現在の奈良県橿原 市と明日香村に位置している。 南北約3-ーキ ロメートル, 東西約2.ーキロメー トルで, そ こに南北ー2条, 東西には左京 – 右京に分れる が, その各々に四坊の条坊制がしかれていた と考えられている。

京城の北部に天皇の住居内裏と, 政務をと る官庁とが設けられていた。 これが大内裏で ある〟 ここに出仕ずる官人としての豪族たち は, 京中に集住される仕組で官庁の市港設け られていた。 つま り古代豪族たちはそれまで のよ うに自領に住んでいるのではなく , それ を捨てて新京に住み政庁に出仕して律令官人 になることを強制されたわけである。 いわば 藤原京の造営は, それまでの天皇と豪族の連 合政権であったわが国の政体を, 天皇とその 官人による政体に切りかえる作用を伴うの で, それに乗り, それを積極的に利用した農 原氏は栄え, それに乗り切れなかった大伴氏 は衰退の途をたどっているよ うに, 単なる宮 の位置および規模 ・ 形態の変化ではなく, 政 治体制, 社会体制の変革を秘めたものであっ た。

ここに都があったのは持統8年 (694年) から, 和銅3年 (7ー0年) までのー7年間, 天皇 で数えると第4ー代持統・第42代文武・第盤代 元明の三代であるが, ここで刑部親王 ・薦原 不比等などの手で大宝律令が編纂され, 律令 国家体制が, 法制的にも整えられた)

 
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。