御代替りを寿ぐイベント【大嘗祭と阿波忌部~貴方の中に宿るもの】

大嘗祭は、即位に際し、天皇が初めて新穀を食(め)され、皇祖及び天神地祇に供し奉る儀式で、一世一代の特別な新嘗祭(にいなめさい)である。

延喜式では祭祀を大祀、中祀、小祀に分けているが、大祀は大嘗祭のみで、最も重要な儀式と言える。
大嘗祭では悠紀(ゆき)国と主基(すき)国が卜定(ぼくじょう:亀卜(きぼく)により占って決定すること)に依り決定される。両斎国の文献での初見は、
天武天皇2年条の播磨・丹波だが、同じく5年9月条では、新嘗のためのものではあるが斎忌(ゆき)は尾張国、次(すき)は丹波国に卜定され、聖武天皇
の御代には丹波国が悠紀になっている例もある。光仁天皇の御代から大方、都を中心として東西となり、悠紀は三河国、主基は因幡国、その後、宇多天皇の
御代から悠紀は近江国に固定され、醍醐天皇の御代からは主基は丹波国ないし備中国からとなり、後鳥羽天皇以後は丹波国と備中国を交互に充て、幕末に至
る。その起源は日本書紀に記載のある「天狭田(あまのさなだ)、長田(ながた)」や「狭名田(さなだ)、渟浪田(ぬなた)」にあると思われる。

卑弥呼が女王として統治した初期の邪馬台国は都祁野~泊瀬付近にあったと推測され、そこは山間部なので、山間部に於ける“狭い田”や“長い田”であ
る。そこを「天=高天原」と見なすなら、卑弥呼はまさしく天照大神のモデルである。また、“名”は宇宙の原理に関わる重要なキーワードで、その真理は“眞名井”
にあり、“渟”は(勾)玉のことで、いずれも海部氏との深い関係を暗示している。(なお、“渟”は黄金の暗示でもある。)播磨、丹波、尾張、三河、因幡、近江、備中いずれも海部氏の丹後に関係が
深い地域であり、それは丹後から稲作が広まったためである。

抜穂使は8月上旬に発遣される。その使は宮主(みやじ:神祇官(じんぎかん)に置かれた宮中祭祀を司る職員)1人、卜部(うらべ)3人の4人が充てられ、
悠紀・主基両国で各2人であり、悠紀に宮主1人と卜部1人、主基に卜部2人が充てられた。卜部の1人を稲実卜部(いなのみのうらべ)、もう1人を禰宜卜
部(ねぎのうらべ)と言った。使はその国に向かうと国司を伴って斎郡に参向し、まず大祓を行い、斎田と斎場を卜定する。その斎田は六段で、大田(おおた)とも言う。斎場の稲実殿
地(いなのみのとののところ)は田の西に設けられ、祭りの場であるとともに、神聖な作業の場でもある。斎田・斎場の各四隅には、木綿(ゆう)を付けた榊
を挿し立てて聖地の標示とし、殿舎の建築に取り掛かる。殿舎には使政所屋(つかいのまつりごとどころのや)、使宿屋(つかいのとのいのや)、五間屋、造酒童女(さかっこ)宿屋、八神殿(はっしんでん)、高萱
御倉(たかかやのみくら)、稲実殿、物部女等宿屋(もののべのおみならのとのいのや)の8棟が建てられる。それと共に、奉耕者の卜定が行われる。稲実公
(いなのみのきみ)、造酒童女、大酒波(おおさかなみ)などの15人である。

このうち、稲実公は御稲(みしね)のことを司る長であり、大田主とも言われ、地方の篤農家である。造酒童女は当地の大少領の未婚女性だが、大嘗祭当夜の供御(くご)の御飯
(おんいい)の奉炊に至るまでの一切の奉仕を行う。神宮の物忌(ものいみ)童女と同様、この童女が手を付け始めることが原則とされている。抜穂の場合
には最初に穂を抜き、斎場の造営に際しては、まず忌鎌(いみかま)にて草を払い、忌鍬(いみくわ)にて掘り始める。御料材の伐採に於いても、忌斧(い
みおの)にて切り始め、稲つきでも最初に手を付ける。この造酒童女1人、稲実公1人(男)、大酒波1人(女)、大多米(おおため
つ)酒波1人(女)、粉走(こはしり)2人(女)、相作(あいつくり)4人(女)、
焼灰(はいやき)1人(男)、採薪(かまぎこり)4人(男)らを物部人(もの
のべのひと)とか物部女(もののべのおみな)と言い、斎場に宿泊する。これ
以外に300人が採用され、斎田の奉耕や京への運搬に従事する。更に、歌人(う
たびと)20人、歌女(うため)20人が採用され、卯日の当日、国司に率いられ、
大嘗宮の前で国風歌(くにぶりのうた)を奏する人たちである。
<物部氏>
物部氏は軍事だけではなく、本来は重要な神事に携わる祭司一族であること
が伺える。かつては牛の生贄を捧げた神殿が多かったが、本来の犠牲を捧げる
神殿はエルサレムだけであることから、最終的に権力を握った秦氏によって犠
牲は禁じられた。すなわち、“牛に勿れ”と書く祭司部民だから“物部”なので
あり、犠牲を禁じられると共に、特定の地域に押し込められた。それが、いわ
ゆる“部落=不可触民の村”の始まりである。
牛を犠牲にする際には必ずその血で穢れるわけだが、それは唯一、祭司のみ
に許された。従って、四足の獣や皮を扱う者たちは、卑しい身分などではなく、
封印された古代の祭司氏族なのであり、部落問題を解決せずして、この国が世
界の盟主足り得ることは無い。
<物忌>
神宮の物忌童女が奉仕するのは、現在では遷宮諸事の中でもとりわけ重要な
ものだけだが、かつては童男と共に子良(こら)と呼ばれ、第二次性徴を迎え
る前の子供たちが御正殿並びにその直下の心御柱周囲の清掃や、神事に於ける
玉串奉奠などに御奉仕していた。(彼らの父が神官。)
その原型は、この国が大邪馬台国として統一された時、卑弥呼の13歳の宗女
トヨが女王の座に就き、父の神官が補佐したことにある。それはすなわち、海
部氏の巫女と神官の関係である。
また、造酒=酒造りの元も海部氏の丹後にあり、神宮の御酒殿(みさかどの)
は丹後からの勧請である。

9月に入ると、吉日を選定して抜穂の儀が斎行される。儀に先立って水際で大
祓が行われ、その後、御田に入って稲穂を抜き取る。まず造酒童女、次に稲実
公、酒波、物部の男女の順である。最初に抜いた4束を御供の料として高萱御
倉に納め、それ以外は白酒・黒酒の料として稲実殿に納める。高萱御倉は内宮
の御稲御倉(みしねのみくら)のような構造である。
抜穂が終わると、八神殿にて祭典が行われる。この八神は御歳神(ミトシノ
カミ)、高御魂神(タカミムスビノカミ)、庭高日神(ニワタカツヒノカミ)、御
食神(ミケツカミ)、大宮売神(オオミヤノメノカミ)、事代主神、阿須波神(ア
スハノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)である。
稲は斎場で乾燥された後、御稲韓櫃(みしねのからひつ)と竹籠に納められ、
擔夫(もちよおろ)300人が担いで京に運ぶ。韓櫃と籠にはいずれも木綿が付け
られており、行列は御米を中心として、禰宜卜部と木綿蔓(ゆうかずら)を着
けた稲実公などが前を進み、造酒童女は輿に乗って供奉し、稲実卜部が後ろを
進む。そして、9月下旬に京に入り、大麻(おおぬさ)と塩湯(えんとう)で修
祓を受け、斎場の竣工まで一時、外院の仮屋に納められる。
<八神殿の神々>
・御歳神
豊作の守護神。スサノオと神大市比売(カムオオイチヒメ、大山祇神の娘)
の間に生まれたとされるが、スサノオは海部氏系、大山祇神は縄文アマ系であ
り、豊作の守護神=豊穣神だから、結局は豊受大神と同義。
・高御魂神
造化三神の一柱。
・庭高日神
庭を照らす日の意。屋敷の神。御歳神の子だから海部氏系。
・御食神
食物を司る。古事記ではオオゲツヒメに相当するが、日本書紀では大年神=
御歳神の系譜に於いて、ハヤマトの妻として八神を生んだ、との記述がある。
話としては混乱しているが、御食神の根源は海部氏の豊受大神。
・大宮売神
織物と酒造を司る。太玉命(フトダマノミコト)の娘とされるが、食物・穀
物を司る女神である若宮売神(ワカミヤノメノカミ=豊受大神)と共に丹後の
大宮売神社で祀られており、丹後は機織りや酒造りの起源とも言える場所だか
ら、海部氏系。・事代主神
宣託の神。国譲りの事代主としては、ここに登場する意味が不明。一説にあ
るような、元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神
の格も持つようになった神(Wikipedia)と見なせば、田の神ということで、御
食神と同義。
・阿須波神
屋敷の守護神。御歳神とアメチカルミズヒメとの間に生まれた神々の一柱。
古事記にしか登場しない、ほぼ正体不明の神だが、御歳神系ならば海部氏系。
・波比伎神
足元を守る神であり、旅の神。御歳神の子。御歳神系ならば海部氏系。
結局、高御魂神を除き、海部氏系の豊受大神由来の神々と言える。しかし、
籠神社の極秘伝“天御中主神亦名豊受大神亦名天照大神”からすれば、
高御魂神は豊受大神又は天照大神に相当し、海部氏系の神と言える。

10月下旬、二条三条の河原に行幸して行われ、「河原の大祓」とも言われる。
『江家次第(ごうけしだい)』に依ると、御手水、御麻一吻一撫、御贖物(おん
あがないもの)折敷高坏2本供進(一本解縄散米一本人形)、宮主(みやじ)祓
詞奏上、五穀を散ずる大炊寮となっている。要は、御贖物の縄を解いて米を散
じ、人形(ひとがた)にて身を左右中と祓われる儀式である。
東山天皇の大嘗祭再興(1687年)以降は、清涼殿の東庭もしくは昼御座で行
われ、明治の大嘗祭(1871年)でも宮殿内で行われている。大正と昭和も京都
御所内の小御所(こごしょ)で行われたが、今上陛下は皇居宮殿「竹の間」で
行われた。

大嘗宮を建てる場所は、平安初期の平城(へいぜい)天皇の御代から大内裏
の南中央に位置した朝堂院(ちょうどういん、八省院)の前庭にあった竜尾壇
(りゅうびだん)の下であった。それ以前は、乾政官院(けんせいかんいん)
や太政官院などである。朝堂院焼失後は、およそ旧地の竜尾壇の下に建てられ
た。明治の大嘗祭では皇居内の吹上御苑で行われ、大正・昭和の時は京都の大
宮御所内の旧仙洞(せんとう)御所御所の御苑が充てられ、平成の大嘗祭は皇
居内東御苑で行われた。
造殿行事はまず地鎮祭が「大嘗宮の儀」の7日前に行われる。祭員には神祇
官の中臣、忌部並びに稲実卜部、禰宜卜部、悠紀主基両国の国司以下稲実公、
造酒童女、灰焼などの雑色人があたる。夜の儀のため、まず童女が火を鑚り始
め、稲実公が火を鑚り出し、灰焼が火を吹いて、国司や郡司の子弟が持つ松明
に移す。その8人の子弟が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西21丈4尺(約
65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地(みやどころ)とする。
これを半分に分け、東を悠紀院、西を主基院とする。
そして、稲実卜部が童女を率いて、宮地の四隅と中央、四方の門に食薦(す
こも)を敷き、幣物と神饌を献ずる。その順序は図の通りで、「い」「ろ」「は」
「に」「ほ」が悠紀、「イ」「ロ」「ハ」「ニ」「ホ」が主基の順序である。祝詞は
卜部が南門の内に入って奏上する。両国の童女が木綿を付けた榊を捧げ、これ
から両殿が建つ四隅と、門が立つところに挿し立てて斎鍬(いみくわ)で8度
穿(うが)つ。こうして地鎮祭が終了すると、諸工が一斉に建設に取り掛かる。
大嘗宮の様式は『貞観(じょうがん)儀式』と『延喜式』に詳細な記載があ
る。図は『貞観儀式』に依ったものである。

平安時代など、天皇が幼い場合は天皇に代わって摂政がいろいろ執り行うが、
大嘗祭も例外ではなかった。そうすると、摂関家は大嘗祭の式次第についても
知っておかねばならず、知らなければ摂関家としての資格が無い、とまで言わ
れ、鎌倉時代には摂政を解任されることもあったという。
例えば、摂関家の二条良基が記した『永和度大嘗会記』には“神膳の次第は
人の知らぬ見ぬ事なれば、しるし申すに及ばず、天神地祇を天子の手づから祭
らせ給て、神供を供え給ふとぞ受け給はる”としている。つまり、天皇が御親
(みずか)ら天神地祇をお祭りし、神饌をお供えする。そのお供えの仕方は、
天皇のみが知ることである、ということである。
神祇官で亀の甲羅を焼いて占いをし、神官家として発展した卜部氏が記した
『宮主秘事口伝』にも“神饌供進、第一之大事也、秘事也”とあり、神饌の供
進が最も重要で秘儀である、と言っている。
関白家・一条兼良は『代始和抄(だいはじめわしょう)』で“卯日は神膳を供
せらる、其儀ことなる重事たるによりて委しるすに及ばず”とし、神饌が最重
要で詳しく記すことができないとしている。そして、天皇しか知ってはならな
い儀式作法、しるすに及ばずという作法は、御食事を差し上げるための丁重な
順番と詳細な作法のことである。また、“嘗殿と云は板敷を敷かず筵(むしろ)
を敷く”とあり、大嘗殿は素朴で、神膳を供する所、御食事を差し上げる所で
ある、と書いてある。
吉田神道を創始した吉田兼倶(カネトモ)も『代始和抄』の追文で“神膳御
供進の次第は天子の御灌頂一朝の重事なれば、事々に秘事口伝にあらずと云事
なし”とし、大嘗祭に於ける神膳の供進の次第は重事であり、これら1つ1つ
が秘事口伝としている。そして、“主上手づから親ら盛り給ふに、ことさら御口
伝のある事とも、深き子細あり”とも記しており、やはり天皇が御親ら神饌を
お手盛りされること自体が秘儀なのである。しかし、いわゆる真床御衾(まど
こおふすま)に関する記述は一切無い。
また、大嘗祭の具体的な内容は、宮内庁書陵部が平成元年3月に刊行した『図
書寮叢刊』に採録され、初めて活字で公開された『大嘗会卯日御記』からも伺
える。例えば、4歳の崇徳天皇の大嘗祭について摂政・藤原忠通が書いた記録に
神膳供進の式次第が詳しく出てくるが、やはり真床御衾の儀式については一切
記されていない。

古代、箸には使った人の霊力が(唾液によって)宿るとされたから、陰
部を箸でついたことは男神との性的交わりを暗示し、ワカヒルメの話の“梭”
は“日”に通じるから、これも男神の太陽神との交わりを暗示する。それは、
太陽神の子=日の皇子を宿すことをも意味する。そして、この機を織っていた
のは新嘗祭の時で、古代の新嘗祭はほぼ冬至の頃だった。冬至は太陽(神)の
神威更新とされ、古代の新嘗祭は太陽神の霊威を新穀と共に頂くことにより天
皇霊威を更新するという意味合いがあったから、そういう意味からしても、ワ
カヒルメの話は太陽神との一体化に依る霊威更新と言える。
ワカヒルメの話にはスサノオが関係しているが、そのスサノオが出雲に降り
た時、斐揖(ひい)川の川上から箸が流れてきたことによって、人が居ること
を知った。箸を流したのは、使った人の霊威が宿っているからで、他の人が使
わないようにしたためである。そして、“ひい=ひぃ=日”で、これも太陽神を暗示している。
また、竹は篆書(てんしょ)体は以下のように書くが、これは「生命の樹」
の3本柱が「知恵の樹」と共に「合わせ鏡」になっている象形であり、様々な
真相解く鍵“カバラ”の奥義の暗示である。すなわち、ピンセット状の竹箸は
太陽神の霊威を授かることを暗示しており、その箸で供された新穀を神人共食
することも併せて、日の皇子の証ということである。

大嘗祭では何故、悠紀が優先されるのか?そもそも、悠紀とは神宮神
嘗祭の由貴夕大御饌、由貴朝大御饌の“由貴”に由来し、由貴とは“齋忌(ゆ
き)=最も清浄で立派な神饌”という意味である。そして、主基殿の“主”と
は“主体”ではなく、“次のもの”という意味である。
神宮との対応からすれば、悠紀は(遷御を除いて)すべて優先される外宮に、
主基は内宮に対応する。前述のように、深夜に太陽神の霊威が籠る稲魂を頂い
て霊性を養うことは、食を司る豊受大神の外宮に相当し、暁の頃に霊性を完成
して日の出(太陽の復活)と共に皇子として顕現することは、太陽神的な天照
大神の内宮に相当する。外宮が豊受大神=根源神を祀り、それ故に外宮先祭と
して優先されるならば、外宮に対応する悠紀もまた、内宮に対応する主基に対
して先祭となる。
⑤麁服と真床御衾、粟
麁服と真床御衾に関して巷に流布している説(飛鳥昭雄氏の説)として、大
嘗祭で陛下は麁服を纏い、真床御衾にくるまれて神の座で寝て起き上がり、そ
れがイエスの“最後の晩餐→死→復活”の再現だ、というものがある。しかし、
それならば、まず神人共食があって後、これらの儀式があるべきだが、そうで
はない。
この秘儀説の元は、昭和の大嘗祭の際に折口信夫氏が神話と照らし合わせ、
『國學院雑誌』の誌上で立てた説である。その神話の場面は、ニニギが高千穂
に降臨する際、真床御衾に覆われて(あるいは着せられて)いたことである。
そして、大嘗祭を行う大嘗殿の内陣中央には八重畳の上に白の御単・御衾(お
ふすま)が置かれた神座が用意されることから、特に昭和40~50年代の超能力
やオカルトブームで秘儀説の注目度が高まった。しかし、折口氏の師である柳
田国男氏は、そのような説を認めていない。
まず第一に、大嘗祭は悠紀と主基でまったく同じように行われる。仮に、真
床御衾が折口説のようなニニギの天孫降臨の秘儀の場である場合、1回だけ行え
ば良く、2回も必要無い。同様に、“最後の晩餐→死→復活”の再現ならば、こ
れも1回だけで良い。新約と旧約の「合わせ鏡」だとしても、新約のイエスは
復活しているが、旧約のヤハウェは死んでいないし復活もしていないので矛盾
する。また、神饌を神に供した後、天皇は祝詞を奏上して神と直会を行い、供
した神饌を天皇御親ら聞し食す。これは、“秘儀”が無事終了した後に成される
御食事であり、御食事されてから“秘儀”を行うわけではない。つまり、“最後
19
の晩餐→死→復活”という順を再現しているわけではない。大嘗祭は確かに天
皇一世一代の秘儀ではあるが、その本質は、新しく日の皇子になった天皇が、
新穀を神に感謝すると同時に、丁重に神迎えし、天照大神をおもてなしして霊
威を頂く特別な新嘗祭なのであり、それ以上の秘儀ではない。
第二は、麁服である。これは繪服と共に神座に奉納され、神がお召しになる
服であって、陛下はお召しになることはできず、まして、神座は神が坐す場だ
から、陛下が立ち入ることは許されない。麁服については、麁服を調進してい
る三木家第28代当主の三木信夫氏がまとめた内容が紹介されている。
大嘗祭の中心行事は大嘗宮の儀で、麁服は入目籠に入れ、繪服は入細目籠に
入れて神衣(かむそ)として悠紀・主基の神座に祀り、その他の神饌を供え、
悠紀・主基の田の新殻をもって天照大神及び天神地祇を奉祭され、自らも食す
る等、天子の威霊を体得する為の神事の儀式です。
大宝律令の神祇令に「凡そ践祚の日,中臣は天神の寿詞(よごと)を奏せ、
忌部は神璽鏡剣(しんじのかがみつるぎ)を上(たてまつ)れ」とあるように、
京師の忌部は大嘗祭の都度、皇位の印である鏡と剣を作り奉っていたのですが、
1036年、第69代・後朱雀天皇を最後に廃止となり、中臣の寿詞だけとなります。
本来の八咫鏡は伊勢神宮で祀られ、天叢雲剣は熱田神宮のご神体として祀られ
ています。
麁服とは、天皇が即位後初めて行う一世一度の大嘗祭においてのみ使用する、
阿波忌部が織りあげた麻布の神服(かむみそ)を言うのです。麁服は天皇自身
が着るのではなくて、天皇が神衣として最も神聖なものとして、天照大神にお
供えする物です。上古より阿波忌部の氏人が製作するから麁服なので、忌部以
外の人達が作成すれば、それはただの麻織物なのです。現在は4反ですが、昔
はもう少し少なかった様です。”
やはり、麁服は天皇がお召しになるのではなく、神にお供えするものなので
ある。つまり、真床御衾は神が降臨する場、神座(上座に通じる)であり、神
ではない天皇は入ってはならない、触れてはならない場所なのである。
また、大嘗祭は特別な新嘗祭なので、新嘗祭での母屋の舗設を見ると、神座、
寝座、御座(陛下が座られる場所)があり、神座は黄端の短畳(たんじょう)、
御座は白端の半畳で、神座と御座は相対して神宮の方向(現在は西南)に設け
られる。寝座は神座・御座の東、母屋のほぼ中央に南北に敷かれる。薄帖(薄
い畳)を何枚も重ね敷き、南に坂枕(さかまくら:薦(こも)で作られた頭を
乗せる部分が斜めになっている枕)を置き、羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立
ての御衾が掛けられる。その端には女儀用の櫛、檜扇(ひおうぎ)、沓(くつ)
などが置かれ、古くはこれを「第一の神座」と称した。
大嘗祭もこれに類しているはずであり、この寝座に掛けられる御衾を真床御
衾と解釈するならば、この寝座の端には女儀用のしつらえが成され、神座と御
座は相対して神宮の方向に設けられるから、この新嘗祭で降臨する神とは、皇
祖神で女神の天照大神をおいて他に無い。これが大嘗祭となると、悠紀は豊受
大神、主基は天照大神なのだろう。
従って、“真床御衾の秘儀”などは存在し得ない。
かつて米は貴重で、飢饉の時には粟で凌いだ。だから、米は高貴な方、
粟は庶民に相当し、同様に、絹は貴重で高貴な方の、麻は庶民の服だから、米
と絹は高貴な方、粟と麻は庶民のシンボルである。高貴な方の代表は天皇だか
ら、これは言わば天皇と庶民=国民の関係であり、日本は古くから天皇が親、
民が子という大きな家のような君民一体の統治機構で、天皇は民(=粟、麻)
無くして存在し得ない。そして、麁服の麻が阿波のものに限定されるのは、阿
波=アワ=粟の意味が込められているからである。
更に、三木氏に依れば、かつて籠神社の第82代宮司に祭祀をいろいろ教え、
自らの邸宅内で祭る神の御霊は、邸宅の北東の部屋にあるという。北東はウシ
トラの方角だから、当然、この神はウシトラノコンジン=豊受大神で、それを
裏付けるかの如く、阿波という地名は豊穣神オオゲツヒメに因み、それは豊受
大神に他ならない。そして、弥生海人大王家の血統の籠神社宮司に祭祀を教え
たとなれば、阿波忌部氏である三木氏は弥生海人(=邪馬台国)の祭司氏族で
あり、だからこそ、粟に繋がる阿波忌部氏の栽培する麻で縫製された麁服が重
要で、これが“神は(麻の)麁服に降臨する”という真意であろう。
なお、絹や木綿は織りやすいが、麻は極めて織りにくく、織目が飛んでしま
い、慣れない一族には困難である、とも言われていたので、それもまた、他の
一族にはできない理由の1つだろう。
なお、三木家は御殿人(みあらかんど)という特別殿上人で、皇室から麁服
作成を命令されるのではなく、依頼されることから、皇室とは対等の立場であ
り、従って、麁服は「献上」するのではなく「調進」するのである。