山田方谷

山田方谷(1805~1877年)は、幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家であり、卓越した政治家である。わずか8年間の改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作った。

明治に入ってからは、薩長閥の重鎮で元勲の大久保利通、木戸孝允などから新政府の要職への就任要請があったが、方谷は固辞。根本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という「士民撫育」の考え方

そして、彼の物事に向かう基本姿勢は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」である。「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)」を人間としての正しい道、最高の行動規範とした。

 産業振興では、方谷は米の作高に頼らない産業を興した。その一例であるが、特産品に「備中」の名を付け、ブランド戦略で全国に展開した。特に、備中くわ(爪3本のくわ)は大人気商品になったという。

 さらに、販売する製品や商品は大坂(現在の大阪)を経由させないで、藩の船で直接江戸まで運ぶようにした。生産・流通・販売を一体化させることで中間業者を廃した

 晩年は、長瀬塾や小阪部塾、閑谷精舎(閑谷学校)などで教育者として後進の育成に尽くした。方谷の門人は、三島中洲(大正天皇侍講、二松学舎大学創設者)や河井継之助(越後長岡藩家老)をはじめ全国に1000人以上といわれた。


文化2年(1805) 2月21日、備中松山領阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)に父五郎吉、母梶(かぢ 本姓西谷氏)の長男として生れる。諱(いみな)は球、字(あざな)は琳卿、通称は安五郎、幼名は阿璘(ありん)、号は方谷。後、弟平人、妹美知が生れる。

文化5年(1808) 母梶から文字を習う。木山神社(現・真庭市)の拝殿で揮毫を披露する。

文化6年(1809) 新見藩儒丸川松隠の門に入る。

文化7年(1810) 新見六代藩主関長輝の前で揮毫を披露する。

文政元年(1818) 母梶が亡くなる。40歳。父、継母近(本姓西谷氏)と再婚。

文政2年(1819) 父五郎吉が亡くなる。

文政3年(1820) 親族の相談によって、方谷が西方の実家を継ぐ。これより、家業と勉学に励む。

文政8年(1825) 備中松山藩主板倉勝職(かつつね)から二人扶持を賜り、学問所での修行を許される。

文政10年(1827) 春、京都へ遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿に学ぶ。年末に帰郷する。

文政12年(1829) 再び京都へ遊学し、寺島白鹿に学ぶ。八人扶持を賜り、中小姓格に上り、藩校有終館会頭を命じられる。

天保2年(1831) 二年間の遊学が許され、京都へ遊学する。鈴木遺音の門に出入りし、春日潜庵らと交わる。8月4日、丸川松隠が亡くなる。享年74。

天保4年(1833) 秋、王陽明の『伝習録』を読む。10月、大塩平八郎の『洗心洞剳記』を奥田楽山に送り、藩中に紹介を促す。12月、三年間の遊学が許され、江戸へ遊学する。

天保5年(1834) 1月、佐藤一斎の門下として学ぶ。三年間従学し、塾頭となる。

天保6年(1835) 同門の佐久間象山と日夜議論をたたかわせる。

天保7年(1836) 9月、藩主勝職の帰城に従い、帰藩する。佐藤一斎から別れの際、「尽己」の書を贈られる。10月、有終館学頭を命じられる。城下御前丁(現・高梁市御前町)に邸宅を賜る。

天保9年(1838) 有終館学頭の傍ら、家塾牛麓舎を城下御前丁の邸宅に開く。

天保10年(1839) 備中松山城下で火災がおこり、有終館が二度目の類焼。方谷の尽力で再建される。

天保13年(1842) 6月、板倉勝職、伊勢桑名藩主松平定永の八男寧八郎(板倉勝静)を養子とする。

弘化4年(1847)  4月、三島中洲を伴い、津山藩に行き、津山藩士天野直人に洋式の大砲及び銃陣について学び、軍制改革の端緒とする。また、庭瀬藩老渡邊信義に火砲技術を学ぶ。

嘉永2年(1849) 4月、勝静が藩主となる。周防守と改称する。12月、元締役を命じられ、吟味役を兼務する。

嘉永3年(1850) 上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励を掲げ、藩政改革を進める。

嘉永4年(1851) 6月、勝静、奏者番を命じられる。

嘉永5年(1852) 郡奉行を兼務する。民政改善につとめる。松山に撫育所、江戸に産物方を設置する。藩札の半数以上を買収し、近似村河原で焼却する。新藩札「永銭」を発行する。農兵、銃陣を編成する。

安政3年(1856) 年寄役助勤につく。藩政に参与する。

安政4年(1857) 元締役をやめる。後任に大石隼雄が就く。8月、藩主勝静寺社奉行を兼務する。

安政5年(1858) 9月、安政の大獄おこる。10月25日、徳川家茂、十四代将軍となる。11月、備中松山城外の要地に在宅をすすめ、土着志願をつのる。長州藩士久坂玄瑞が来遊し、桔梗河原(高梁川中洲)で行われた銃陣の調練を衆人に混じって視る。

安政6年(1859) 2月、勝静、寺社奉行を罷免される。4月、西方村長瀬(現高梁市中井町)に移住する。7月、越後長岡藩士河井継之助が来遊する。

万延元年(1860) 3月3日、桜田門外の変が起こる。3月、河井継之助が長岡へ帰る。継之助は長瀬から対岸へ渡り、方谷に向い河原でひざまづいて数度礼をして去った。10月、大石隼雄元締役をやめ、方谷、再び元締役を兼務する。

文久元年(1861) 2月1日、勝静再び奏者番兼寺社奉行に任じられる。この時、方谷は顧問として江戸へ向かう。5月、病のため帰藩し、元締役をやめる。御勝手掛を命じられる。和宮親子内親王、将軍徳川家茂に降嫁する。

文久2年(1862) 1月15日、坂下門外の変が起こる。3月15日、勝静、老中に補され、外国事務を担当した。再び方谷を顧問として江戸に召し出す。米製の洋式帆船「快風丸」を横浜で購入する。7月6日、一橋慶喜を将軍後見職、9日、福井藩主松平慶永を政事総裁職とする。閏8月、勝静、福井藩士横井小楠に時事に関する意見を聞く。方谷も列席する。11月、方谷、将軍徳川家茂に謁見する。12月、隠居を許され、家督を譲る。但し、年寄役に準じ、大事の時は参与することを命じられ、隠居扶持を賜わる。しばらく江戸にとどまる。

文久3年(1863) 3月4日、将軍徳川家茂上洛する。勝静も随う。4月、一度帰藩し、再び京都に召し出される。5月30日、老中格小笠原長行(ながみち)、約2千人を率いて、大坂に上陸。入京は阻止され,免職。6月13日、徳川家茂、江戸へ帰る。勝静も同行。6月、方谷は許されて、帰藩する。このとき、勝静が将軍家から拝領した袴を下賜される。8月17日、天誅組の変(27日壊滅)。8月18日、8月18日の政変が起こる。

元治元年(1864) 長瀬対岸の瑞山(水山)を開墾し、草庵を構える。6月18日、勝静、老中を罷免される。7月、第一次長州征討が起こり、勝静、山陽道先鋒を命じられる。方谷、留守の兵権を預かり、頼久寺に入り、郷兵を部署に配置する。

慶応元年(1865) 5月12日、第二次長州征討が起こる。10月22日、勝静、老中に就く。伊賀守に改称。

慶応2年(1866) 4月、倉敷浅尾騒動が起こる。方谷、一隊を率いて野山口(現・加賀郡吉備中央町)を守る。7月20日、将軍徳川家茂が大坂城で没する。方谷、勝静の諮問に応じ、長州藩存置の三策を献じる。8月21日、征長停止の沙汰書が出される。12月5日、徳川慶喜、15代将軍となる。

慶応3年(1867) 6月、方谷、京阪の地に赴き、勝静を補佐する。8月、帰藩を許され、勝静から短刀を賜わる。10月15日、大政奉還の沙汰書がでる。江戸幕府滅びる。

慶応4年(1868) 1月、戊辰戦争が始まる。勝静、江戸、日光、奥州を経て箱館へ。1月18日、備中松山城を鎮撫使(岡山藩)に開城。1月22日、玉島の西爽亭で熊田恰(あたか)自刃。長瀬塾を開く。

明治2年(1869) 5月、勝静、江戸で自訴(明治5年に許される)。9月、高梁藩2万石で再興(藩主は板倉勝弼)。

明治3年(1870) 10月、長瀬から小阪部(現阿哲郡大佐町)へ移り、子弟教育にあたる。

明治4年(1871) 7月14日、廃藩置県。高梁県となる。8月、明親館(現・真庭市真鍋)で開校に臨み『大学』を講義する。

明治5年(1872) 11月、金剛寺に方谷庵(現・新見市大佐小阪部)を営む。

明治6年(1873) 2月、臥牛亭の移築を行う(当初蓮華寺境内後、八重籬神社境内)。2月、はじめて閑谷精舎に赴き、子弟教育を行う。12月、知本館(現・久米郡美咲町大戸)に赴き、『大学』を講義する。後、閑谷からの帰途に赴くことを約束する。

明治7年(1874) 12月、温知館(現・久米郡美咲町行信)で開校に臨み『論語』を講義する。

明治8年(1875) 4月、高梁で勝静と対面。長瀬で勝静3泊する。

明治9年(1876) 7月の閑谷行き、8月の知本館行きが最後となる。

明治10年(1877) 6月26日、小阪部で没する。享年73.枕元には勝静から賜った短刀・小銃と王陽明全集が置かれた。6月29日、西方村に葬られる。(現・方谷園内)

参考文献:山田準編「山田方谷先生年譜」(『山田方谷全集第一冊』所収)