禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会開催しました。

今回は、前回好評の佐藤一斎の言志四録に続き、佐藤一斎の「重職心得箇条」に学ぶ

「重職心得箇条」は幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩(岐阜県恵那市)の為に作った重役の心構えを書き記したもの

佐藤一斎(さとう いっさい)は、安永元年(1772年)に江戸浜町に生まれました。安政六年(1859年)に、八十八歳の天寿を全うしますが、死の直前まで現役の教育者として大活躍しています。当時としては、驚異的な長命であったと言えます。
青年時代(今でいえば中高校生の頃)、江戸は下谷の柔術道場に親友の杉本仲温(後に医者となる)と一緒に入門し、熱心に稽古しました。やがて柔術に上達すると、自分の腕前を試そうということになり、江戸の人々が吉原に通う道である日本堤(つつみ)で、往来する人をとらえて無法に投げるという危険な遊びをしていたと伝わっています。相手は不意を突かれて手向かうほどのこともできずに投げられたので、それを喜んで何よりの娯楽にしていたというのですから、現代であれば暴走族にでもなりかねない元気すぎる気質の持ち主であったようです。

しかし、天明七年(1787年)から始まった松平定信の「寛政の改革」により、世の中の雰囲気が一変します。改革の本来の目的は、幕府財政の立て直しにあったと思いますが、生真面目な定信の性格もあり、社会の風俗や思想も厳しく統制されました。現代でいえば、バブル景気で世の中全体が浮かれていたのが、日銀の過度の引き締めでバブルが崩壊し、火が消えたように不景気になったようなものでしょうか。
純情多感な青年であった佐藤一斎は、世の中の変化を天の諌めと感じたのでしょう

これまでの奔放な生活を真剣に反省します。そして、親友の杉本仲温と、「男児たるもの、なんぞ天下第一等の事を為さずして、すなわちこの小勇をなさん」(男と生まれて、天下に第一等の価値あることをせずに、こんな小さな勇気(辻投げ)を誇っているようではいけない)と話し合い、それから学問に打ち込むようになったと伝わっています。

寛政四年(1792年)、二十一歳のとき、林述斎の勧めで大阪に学問修行に行きます。そのきっかけとなったと思われるエピソードがあります。勤めを辞めて浪人中だった一斎は、ある日、江戸藩邸で親しく付き合っていた岩村藩の友人と隅田川で舟遊びをしました。ところが、友人が誤って水に落ち、そのまま水死するという不幸な事件が起こりました。友人の死に心をひどく痛めた一斎は、安閑と江戸にいることができず、ひとかどの学者になるまでは江戸に帰らないという悲壮な覚悟で、大阪に旅立ったと伝わっています。(友人の水死事件がきっかけで、近侍の勤めを免ぜられたという説もあります。)

幕府の官学は、朱子学ですが朱子学だけではなく、陽明学も学ぶことができ、佐藤一斎の学風は、「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」と言われるようになります。「表向きは朱子学を教えるが、内実は、陽明学も教えている」という意味です。
特定の学派にこだわらずに、それぞれの教えの長所を取り入れ、儒学の教えを総合していったという点で、今日では、むしろ誉め言葉に感じます。そのような一斎の幅の広い学風は、若き日に大阪の懐徳堂に学んだことが大きく影響しているといわれています。その後一斎は、昌平坂学問所の大学頭(だいがくのかみ)であった林簡順の門下生となり

林家の私物であった昌平坂学問所を幕府に公納し、正式に幕府の直轄機関となります。現代風に言えば、国立大学になったと。それと同時に、学校規則なども整備し、武士に限らず、町人や百姓であっても、真面目に学問に打ち込む者は学生として受け入れることにしました。身分制度の厳しい江戸時代において、やる気のある者は身分にかかわらず、幕府の学校で講義を聴けるというのですから、大変開明的な方針であったと思われます。

陽明学とは?朱子学とは?簡単に。

朱子学
身分秩序が大切【礼をわきまえ主君に従うこと】
自然や万物に上下関係・尊卑があるように人間社会にもそのような差別があって然るべき

陽明学
朱子学を否定して生まれた思想
周囲の人間との関係性を重視し誰とでも懇ろに親しみ、上の者を敬い、下の者を軽んじ侮らないこと即ち「愛敬」を具体的な実践

ただ、当時の幕府にとっては危険思想で、陽明学に通じる学者などを島流しにしたり。。

その後

一斎の晩年である嘉永六年(1853年)に、ペリーが率いるアメリカの艦船(黒船)が、日本に来航します。幕府はペリー艦隊を江戸湾浦賀沖に誘導し、アメリカ合衆国大統領の国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約の締結に至ります。この事件から明治維新までが「幕末」の動乱の時代になるわけですが、一斎は八十代の高齢でもあり、また、学問一筋の学者・教育者であったこともあって、政治活動を直接行うことはありませんでした。
それでも、ペリーが持ってきた国書に対して、幕府当局から諮問を受けて、たびたび意見を奏上しています。ちなみに、ペリーの持ってきたアメリカの国書は、英語版の原本だけではなく、漢文訳とオランダ語訳もセットになっていました。アメリカにすれば、英語版がメインのものですが、当時、英語を解する者がほとんどいなかった日本人にとっては、漢文版をメインに、オランダ語訳を適宜参照して、内容を理解しました。そのため、漢文の専門家である佐藤一斎とその門下生は、ペリーとの交渉において通訳の役割を果たしたともいえるでしょう。現代では想像もできない話です。

 

佐藤一斎のエピソードとその門人
一斎は、一流の学者でしたが、文弱の人ではありません。若い頃から武芸に親しみ、門下生にも、武芸を奨励しました。一斎が、武芸についても達人のような眼力を持っていたことを伺わせるエピソードをご紹介しましょう。
一斎が、水道橋にある弟子の牧野黙庵の寓居を訪問した時のことです。たまたま、一人の武士が馬に乗って門前を過ぎるところでした。馬術を得意としていた一斎がその姿を見て、黙庵の子供達に向かって言いました。「あそこで馬に乗っている者は、人が馬に乗っているのではなく、馬が人を乗せているだけだ。主導権が馬にある。危ないものだ。」
すると、乗馬の武士が門前を十歩も行くか行かないかのないうちに、突然、馬が躍り上がって、武士は馬から振り落とされました。一斎は笑いながら、「すべてはこれと同じだ。学問にも、学びの正しい術(技術や方法)がある。それを理解せずに、闇雲にたくさんの本を読んでも、人が本を読むのではなく、本が人を読んでいるだけになる。子供らよ、馬から落ちた人を真似することなく、立派な師匠について、正しい方法で学問をしなさい。」正しい方法での学びを重視した一斎ですが、そうかといって、門下生を型にはめるような窮屈な教育はしませんでした。
幕末の騒然とした時期に、一斎の家塾に佐久間象山、山田方谷など経世の才にあふれた優れた若者が下宿して学んでいた時のことです。象山や方谷は、国の政治や経済のことで盛んに議論していました。興奮して大声になることも、しばしばだったようです。

有名な人物は、山田方谷(ほうこく)、佐久間象山(しょうざん)、安積艮斎(あさかごんさい)、大橋訥庵(とつあん)、横井小楠(しょうなん)などです。いずれも、幕末を代表する学者や思想家です。
このうち、幕末日本の先覚者といわれる佐久間象山の門下から、勝海舟(かつ-かいしゅう)、坂本竜馬、吉田松陰(しょういん)、小林虎三郎などの幕末の日本を動かした志士が輩出しました。
吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなります。

 

「重職心得箇条」について

リーダーのあり方の教えを17条に分けて簡潔に説いた『重職心得箇条(じゅうしょく-こころえ-かじょう)』

藩主不在のときは、藩の武士団のリーダーとして藩全体を切り盛りする必要がありますから、支店長や部長の役割も兼ねています。非常勤役員ではなく、常勤で従業員兼務役員(たとえば、取締役総務部長、取締役工場長など)に相当すると理解した方がよいかもしれません。武士団のリーダーに対する心得ですが、その内容は、現代の企業人にとっても、とても参考になるものを含んでいます。明治以降は、長く忘れられていたのですが、それが大正時代に再評価され、内容の素晴らしさから、安岡正篤先生が各地で講義され、安岡先生の高弟であった住友生命の社長・会長を歴任された新井正明氏は、社内の管理職研修で、自ら「重職心得箇条」を講義されたそうです。

 

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