北島先生から知覧特攻隊について

先日、鹿児島の知覧特攻隊の護衛をされていた北島先生のお話をお伺いする機会がありました。
今年で90歳にも関わらず
背筋が伸び、しっかりと聞き取れるお声で、殆ど年齢を感じさせない姿もさりながら
戦時中に特攻隊のお話を身近で見られてきた方から直接お話をお伺いする機会は始めてでした。
鹿児島の知覧飛行場から、重たい250kg爆弾を腹にくくりつけた飛行機が、沖縄の沖合に群がる米艦隊に向かって、何度も何度も特攻攻撃を行った。(ただし、片道の燃料しか積んで特攻に行っていたというのは嘘でそんな非道な事が出来る整備士はいなかったとも語っておられました。)
北島さん自身も追撃され、海の上に4時間彷徨って助けられた経験があり、その時は
何度も眠くなるのと闘いながら、眠くなる度に北島さんのお母さんが呼びかけている声が聞こえて、目を覚まして⇒眠くなり⇒目を覚ましての中で助けられたという事です。
そんな経験をされている北島さんですが、
非常に腰が低く、お人柄が伝わってくる方でした。
「夢を持って頑張ろう!自分は今年出来ればオスプレイを運転したい!」という事もおっしゃっていて、自分よりも60歳近く年上の方がまだまだ現役で仕事も夢も持って頑張っている事に大変尊敬の念を感じる事が出来、更に上のお方を見る中で、自分にはまだあと75年あり、75年計画書でも作成しようかと決意させてくれました。
人間いつの時期にも夢、想いは変わるものの
変わらず持ち続けているものがある北島さんには、当時亡くなった方々もきっと雲の上から感謝されている事だろうと思います。
また、北島さんは
相花信夫少尉の遺書を受け取り、継母に対して宛てた遺書の話をお伺いする中で、涙なしには語れない素晴らしい話であると。
義理のお母さんに対して、今まで「お母さん」と呼べなかったが、人生の最期に遺書で充てて書いた内容の最期に義理のお母さんに対して「お母さん」と3度書かれており、
それを北島さんが実際に義理のお母さんにお渡しした際に、涙が止まらなかったとの事です。
相花信夫少尉
陸軍特攻第77振武隊
昭和20年5月4日 特攻戦死 18歳
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
「知覧特別攻撃隊」(松永薫編 ジャプラン一九八九年刊)