安積艮斎(あさかごんさい)

寛政3(1791)年、安積国造神社第55代宮司・安藤親重の三男に生まれました。兄・重満の影響で学問に興味を持つようになり、二本松藩の儒学者に学び、17歳の時、学問の道を志して江戸に上ります。江戸への道中で日明(にちみょう)という僧に出会い、彼の紹介で高名な儒学者・佐藤一斎、林述斎に学び、頭角を現しました。江戸に私塾を開き、著作を通じて全国にその名が知られるようになりました。

多くの門人を育成した艮斎は、二本松藩の藩校の教授を一年半務め、60歳で江戸幕府直轄の最高学府「昌平坂学問所」の教授を務め、ペリー来航時のアメリカ国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の翻訳及び返書起草に携わるなど、幕末の政治・外交を支えました。艮斎が学び教えていた朱子学は江戸幕府の正学とされており、江戸幕府が国を治めるために利用されていました。ですが、師であった佐藤一斎の影響を受けたのでしょう。艮斎は、朱子学だけではなく、危険視されていた陽明学など他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱えます。また、外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られました。
その自由な精神は幕府に深く関わるようになってからも失われず、学問所教授の時代に出版された艮斎の漢詩集『艮斎詩鈔』『艮斎詩略』の中に、アヘン戦争への論評や政治批判などの詩を収めています。艮斎の自由な学風のもとで2000人を超える門人が学び、その中には吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎など、新時代を切り開いた人も数多くいました。幕末の会津を支えた秋月悌次郎も、艮斎のもとで学んでいます。
艮斎の教え子たちは、幕末・維新という日本の大変革期において、中央や地方で指導的な役割を果たし、近代国家日本建設の人材となりました。艮斎の塾は、著名な門人が200人も綺羅星の如く輩出した、日本史上有数の学塾です。

艮斎先生の門人

小栗忠順(おぐり ただまさ)
上野介。日米修好通商条約批准書交換のため渡米。
横須賀造船所建設はじめ軍事、財政に手腕を発揮、日本の近代化を推進しました。

木村芥舟(きむら かいしゅう)
摂津守。咸臨丸の提督(勝海舟の上官)として太平洋を往復しました。
幕府海軍の建設を進めた人です。

栗本鋤雲(くりもと じょうん)
横須賀造船所建設の現場責任者。
維新後はジャーナリストとして活躍しました。

吉田松陰(よしだ しょういん)
志士、思想家。江戸へ出て、安積艮斎次いで佐久間象山に師事しました。
松下村塾を開き、門人は伊藤博文、井上馨はじめ多士済々。

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

松下村塾で学び、のち江戸へ出て艮斎塾に入りました。
奇兵隊創設。
長州藩を倒幕へと転換させました。
第二次長州征伐では全藩兵を指揮、幕軍に連勝しました。

岩崎弥太郎(いわさき やたろう)

実業家。
三菱グループの創始者。
海運業を興し巨大政商として勇躍しました。

前島密(まえじま ひそか)

越後高田出身。日本近代郵便の父。
海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険等、広範に功績を残しました。
安積塾で岩崎弥太郎と出会っています。

中村正直(なかむら まさなお)

号を敬宇(けいう)。
昌平坂学問所教授。
スマイルズ『セルフ-ヘルプ』、J.S.ミル『自由論を翻訳出版しました。

斎藤竹堂(さいとう ちくどう)

江戸で私塾を開きました。
アヘン戦争の論評や西洋史書『蕃史』を著しています。
38歳で病没しました。

重野安繹(しげの やすつぐ)

清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、東大教授。
『大日本編年史』編集を主宰しました。

三島中洲(みしま ちゅうしゅう)

漢学者、東大教授。二松学舎大学を創立しました。
中町夢通り、表参道入口に立つ安積国造神社の社号標は三島の書。
石井研堂『安積艮斎詳伝』に「幕末儒宗」の揮毫を寄せました。

岡鹿門(おか ろくもん)

漢学者。松本奎堂、松林飯山と大坂に双松岡塾を開塾、尊攘論を説きました。
仙台藩藩校養賢堂教授となりましたが、戊辰戦争の際尊王論を唱えて奥羽越列藩同盟結成に反対、投獄されました。
維新後、東京に私塾を開きました。
門人に石井研堂、尾崎紅葉があります。
東京府学教授など歴任。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻(びょうこぶんこうはちずおうかん』を筠軒とともに制作しました。
また、安藤脩重(もろしげ)翁碑(御神楽殿)を撰文しました。

松本奎堂(まつもと けいどう)

尊攘派志士。双松岡塾を開く。
天誅組(てんちゅうぐみ)の中心人物。
代官所を襲撃したが、八月十八日の政変以後、諸藩兵の攻撃を受け自刃しました。

松林飯山(まつばやし はんざん)

勤王の志士。
双松岡塾を開きました。
大村藩五教館教授。大村藩を尊王倒幕へと導きました。

大須賀筠軒(おおすが いんけん)

漢詩人。
平藩校養賢堂教授、旧制第二高等学校(仙台)教授。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻』の画と詩を作りました。

秋月悌次郎(あきづき ていじろう)

号韋軒。
政治家・漢学者。
会津藩主松平容保の側近を務めました。
東大教授。

南摩綱紀(なんま つなのり)

会津藩士。
藩命によって西国及び九州の諸藩を歴遊して各地の風俗、藩政の概要などを見聞、『負笈管見』を著しました。
東大教授。

間崎哲馬(まざき てつま)

号を滄浪と言い、艮斎塾の塾頭を務めました。
土佐勤王党の中核です。
勤王運動を行う藩政改革を計画したが失敗、自刃を命ぜられました。

清河八郎(きよかわ はちろう)

尊皇攘夷の志士。
各地の志士と交わり、島津久光上洛時、挙兵を画策しました。
藤沢周平『回天の門』に清河の生涯が描かれています。

菊池三渓(きくち さんけい)

漢学者。
『国史略二編』『国史略三編』、漢文小説の『本朝虞初新誌』を著しました。

岡本黄石(おかもと こうせき)

彦根藩家老。
詩名高く、維新後は東京で麹坊吟社を開き、後進を指導しました。

鷲津毅堂(わしづ きどう)

名は宣光。
漢学者。
尾張藩藩校明倫堂教授。
維新後、宣教判官となりました。

阪谷朗盧(さかたに ろうろ)

漢学者。
郷校興譲館教授。
廃藩後、明治政府に出仕しました。
明六社社員。
名文家として知られました。
子息に蔵相阪谷芳郎(よしろう)があります。

神田孝平(かんだ たかひら)

幕府の蕃書調所に出仕。
維新後政府に招かれ、地方官会議議長として地租改正に寄与、のち貴族院議員となりました。

福地源一郎(ふくち げんいちろう)

号を桜痴。
ジャーナリスト。
『江湖新聞』を発刊、佐幕の論陣をはり発行禁止となりました。
『東京日日新聞』主筆、『幕末の政治家』を著しました。

谷干城(たに たてき)

熊本鎮台司令長官として西南戦争に遭遇、熊本城を堅守しました。
後、農商務相を務めました。
日露開戦には批判的な立場をとりました。

宍戸璣(ししど たまき)

政治家。
司法大輔、教部大輔兼文部大輔など歴任しました。
艮斎の門にいた時、漢詩「示諸生」作詩に関わる逸話を残しました。
後年、石井研堂の『安積艮斎詳伝』に跋を寄せています。

楫取素彦(かとり もとひこ)

政府高官。
松陰が密航に失敗して罪人となった時、楫取と宍戸は刑の減免の運動を艮斎に懇願、艮斎は老中阿部正弘に減免を願い出ました。。

宇田川興斎(うだがわ こうさい)

蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)手伝となり箕作阮甫(みつくりげんぼ)らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。
初の英語学書『英吉利(いぎりす)文典』を著しました。
興斎『漂客記聞』に艮斎の序があります。

箕作麟祥(みつくり りんしょう)

明治の啓蒙思想家。
外国奉行翻訳方。
フランスに留学しました。
ナポレオン法典を全訳した『仏蘭西法律書』は、民法編纂に影響を与えました。